Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

画家という感性優勢の人間という動物

松葉

友人の画家の個展の案内が来たので行った。会場は都内だったが、我家からは行き辛いトコロだったのでクルマを利用した。

その画廊へは随分と昔に、別の知人の展示があったので行ったコトがあった。だが、今回行ってみると周囲も様変わりしたのではないか?と思うほど、記憶と異なっていた。そもそも表通りから一歩入った、つまり旗竿敷地という記憶はその通りなのだが、その建築基準法ギリギリ幅の道がコンクリートで舗装されていた。

いやぁ~~~前は未舗装だったはず。それに画廊もいつの間にか改築されたのだろうか?全然違う空間になっていた。

つまり、案内状に示された地図がなければ、おそらく素通りしてしまっただろうと言う程、変わっていた。

 

都心から離れた街では商店街がシャッター街になり、古い雑居ビルは解体されて空地が広がり、やがてそれらの土地はどこかの不動産業者によって合筆されたのだろうか?巨大なマンションが出来たりしている。

中学や高校時代の同級生などの親がやっていた商売も、我が世代では引き継ぐことなく終わり、親も人生を終える日を迎えて遺産相続となる。そうして売られていくのだろう。

そういう感じでもなさそうな、やや高級路線の住宅街の中にある画廊に出掛けたのだが、そういう環境でも大規模な開発はされなくても、常に街の風景は更新されているのだ。

 

冒頭の画像の松の葉だが、常緑だけにマイド大した変化もなく立ち続けているように見えるものの、常緑を保つには葉の更新がされている。秋から冬は、やはり枯葉が多くなる。この松葉っていうのは油分を含んでいるのだろう・・・なかなか土に還らない。それはイチョウもそうだけど。だからこうした枯葉で堆肥を作るのは・・・やらない。

ナニが言いたいかというと、その画廊の立地する地域は、なんとなくその街の更新が松葉に似ていると思えたのだ。

 

その画廊へは、一応全く見当違いのトコロに迷うコトなく行けた理由は、近くに小学校があったコトだ。あと、警察署というのも目印になった。あとは・・・全く新規といってイイ程に、ワガハイの記憶は使いモノにならなかった。それだけ、ご無沙汰の画廊だったのだ。

 

クルマで出掛けたので駐車場を探した。流石に都会だ。料金スマホ決済のヤツが多い。老人はこういうのが苦手なのだ。現金利用が出来るコインパーキングを探した。それは幸いなコトに、比較的近隣に見つかった。ただ、3台分しかなかい駐車場で、空きは1台だけ。セーフだった。

 

久しぶりに会った画家の友人は、同い年ながらワガハイのように病持ちではなくて元気そうだった。そもそも健康優良児で生きてきた人だから、実は体調がよろしくない人の心理については配慮の分からない男ではある。したがってワガハイの病話なんて言うのは、端折ってサッサと切り抜けるのが正しい。

椅子だしてくりぇい!

ワガハイの顔を見ると、嬉しそうに新作について語り始めた。こうなると彼の語りは止まらない。

椅子だしてくりぇい!

かつてワガハイが語った言葉に感銘した、などと言って、その文言を披露してくれたんだが・・・?ワガハイ的にはそんなコト言ったっけ???

椅子だしてくりぇい!

つまり、我がコトバを彼が感銘を受けた点は間違いなさそうだった。そしてその文言を彼は脳内で繰り返し、そして思考した。ナニかが壊れて生れ、新しいコトに気付いたらしかった。非常に嬉しそうに興奮気味に話し続ける彼の様子をみて、我がコトバが役に立ったという点は嬉しかった。

椅子だしてくりぇい!

でも、その言葉は本当に変性を受けて彼の言葉になったんだなぁ・・・とも思った。だから出典であるワガハイの言ったコトとはニュアンスがかなり違ってしまったように思った。つまり、自分の血肉にするというのはそ~ゆ~コトなのだろう。

彼は画家という感性優勢の人間という動物なのだ。人の言葉をクリアーに己の脳内に記憶はしない。感性を通して肉体化するようにして記憶しているのだ。

椅子だしてくりぇい!

という、面白いヤツなので、長い付き合いになっている・・・というのは一つにはあるけれど、やっぱり人間がイイんだな。彼から見て、ワガハイがど~なのかは知らんが。

コーヒーはいいから、椅子だしてくりぇい!

 

音楽のあるフレーズがアタマにこびりついて離れなくなることを「イヤーワームディラン効果)」と呼ぶ。例えばラベルのボレロなんかは始末が悪い。あの曲はそもそも繰り返し続けるから、一回聴いただけで何十回も聴いたコトになってしまう。それでも、ソレが不快でなければイイ。

だが不快に思ってしまうコトも多々ある。対処法は気にしないのが一番。だが終わったと思ったらまた始まるしつこい時もある。こういう場合、ワガハイ的には放置してしまう。もう半ばヤケ気味で繰り返しを容認してしまう。

すると、だんだんと元のフレーズから変化して、似つかないフレーズになってしまうコトがある。するとなんか・・・不快ではないのだ。この時、元のフレーズは消化されたと言ってイイのだろうか?

 

画家の彼の中で、ワガハイの言葉はイヤーワームのように繰り返されて変性を受け続けたのかもしれない。

ま、そんなコトを思いながら篤く新作を語る彼の目を見ていた。

もう語りはいいから、椅子だしてくりぇい!