「アートの社会性」についての議論が盛んだった1970~80年代の雰囲気も思い出す、「吉田克朗 展」だった。
あ、昨日の続きでございますぅ~。
長文になるから章を改めるように、ネタを刻んで書く。
あれはまあ・・・1980年前後だったと思うが、東京銀座や神田の裏通りには貸画廊なるモノが多くあった。新橋駅で降車して、銀座八丁目に入ると早くも雑居ビルの入口に「〇〇展」なる看板が見られた。そういう看板をたどって銀座一丁目まで行き、首都高の下を抜けて京橋に入ると数件の画廊があり、そこで一旦、画廊が途切れた。
するとブリヂストン美術館があって・・・高島屋を越えて、日本橋に突入するとツァイトフォトサロンという写真で有名な敷居の高い画廊があって、これはまあ貸画廊ではなかったけれど。
そのまた裏通りに実験的な画廊とも言えないような空間とも言えないような「場」を持った画廊?があって、その画廊巡りの終端は概ね神田の「ときわ画廊(中央区立常盤小学校隣のビル内・既に閉廊)」というトコロだった。
だから・・・夕方に「ときわ画廊」に行くと怪しい人たちが集結していて、そこから先は神田の居酒屋に消えていくワケだけど・・・ワガハイ的には銀座に戻る。そして2丁目の呑み屋に行けば、これまた違った面子が集結していた。ま、年に数回だが怪しく不思議な美術家の方々と混ざって、その議論を聞いていた。
若かったからねぇ・・・あまり口出しすると面倒だから控えていたなぁ。
(今はもう、そうした居酒屋も無くなったし、画廊も少なくなった。)
要するに、美術表現の抱え続けている諸問題と、現代社会との接点がないワケだ。問題提起はあるんだが、全く響かない。特に安保世代の方々は、どこかで美術による革命的変革が可能なのでは?と思っていたのだろうか。
ワガハイ的には、それは社会的に起きるのではなく、作品を鑑賞された方個人の問題として喚起されるかもしれない、という可能性の問題だと思っていたし、社会という大きなコトを持ち出す前に、もっと個々人的な領域の世界のコトだと思っていたが。
だから「社会性がないという社会性」・・・などというコトなワケだ。
呑み屋での愚痴にも思える酔っ払い議論の内容は、社会全般が美術に対して注目度が低すぎる・・・という不満だったように思う。
ま、無理でしょ・・・野球選手のように注目されはしないだろう。ピカソはともかく、セザンヌの面白さなんて、まあ・・・実感が伴わない教科書的な押し付け価値観共有でしかないんじゃね?という実態の日本・・・だろう。印象派が起こる必然は、この国には無かったからねぇ。文脈が異なるのだから。
ジャクソン・ポロック(米 1912~1956年)がドリッピングしたって、なんだか分からん!というのは日本としては真っ当な感性だと思うけどねぇ。そしてこういう説明が為されたりする(以下リンク先のような)。
ま、仕方ない。生ずる素地がなければこういう説明にならざるを得ない・・・か。
美術には隠喩としてばかりではなく、図らずも受け入れざるを得ない問題がある。例えばソコにキャンバスがあり、絵筆があって絵具がある。真っさらなキャンバスを前に絵具の破片を付着させるだけで・・・はじめて描いた人類の誰かの問題に繋がってしまう。
そんなコト思って描き始める人なんて、普通はいないからねぇ。でも、どこかでそういうコトにぶち当たるのが表現者だと。そして、そういうコトがあるってコトなんて知らずに、描かれた絵柄の技巧に翻弄されて上手いだの下手だの言ってるだけの鑑賞者。
ま、これは美術に限らす、音楽に限らず、料理でもそうなんだけど・・・いつも同じ味の料理なんて、ナニかやらなければあり得ないだろう。食材は日々変化するのだから、料理は本質的に一期一会のはずだ。
旨味調味料ですぅ~!
(美術にも、旨味調味料的な要素はあるからねぇ)
旨い料理は全て旨味調味料に繋がる!?
知人のグラフィックデザイナーが上海に行った・・・本場中国料理は美味だったという。それで料理人を褒めたたえると・・・「コレ!」といって「味の素」を見せてくれたそうだ。そして
「日本人、コレ使えば大喜び!」
だそうだ。
料理人の意図を鑑賞するように味わう客なんて、普通はいないからねぇ。
「あのよぉ、カネっていうのはよぉ、こう・・・(手のひらを縦にしたり横にしたりしながら)立つのがカネ、なんだよなぁ・・・。ぺらっと、ヒラっと置かれているのはカネじゃないんだよなぁ・・・」
ある裏路地の雑居ビル2階の画廊の扉を開けると、ワガハイの顔を見るなり挨拶もなくいきなりそう語り始めた怪しい男がいた。吉田克朗さんだ。
「克朗さん、作品でも売れたの?」
「いや、そうじゃないんだよ。いいか、こう・・・立つんだよ!」
つまり、コレってパラレルな問題について同時に語っているワケだ。なにせ「もの派」として語られる作家でもあるから。
そんなコトを言いながら
「作品制作はカネを使ってするんじゃなくて、アタマを使ってするモンだ。」
こういうコトを言う。
こんな話しに、造形の重要なナニガシカが込められている。ま、「たとえ」である。カネの話しでもあるけれど、カネの話しだけではない。
でもこの言い方って普通・・・通用するか?
分かんねぇ~よなぁ。
だが、これも「アートの社会性」の一端だと、ワガハイ的には思うのだけど。
だからねぇ・・・ナニゴトもいろいろあり得るから否定も肯定もないんだけれど、ワガハイ的に関心のあるコトは、今の時代に注目される「現代アート」にはほぼ無い。
そもそも、いつの間にか「現代美術」という言い方が廃り、「現代アート」と言うようになったけど・・・ナンだろうねぇ?言い方が変わったということは、ナニガシカからの差別化を図りたいんだろうか?
ま、別にど~でもいいケド。
ならばコンテンポラリーと始めから言えば良いではないか。