Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

天沢退二郎 宮沢賢治の彼方へ 思潮社

本日も前回 ↓ の続き。

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Fさんはピアノの先生だった。そうは言ってもYAMAHA音楽教室の講師ではない。個人的に自宅や、何処かに招かれて教えていた。

ま、こう言ってはナンだがYAMAHA音楽教室的な教え方を嫌っていた人だった。それはワガハイも同感するトコロだ。という記述によって、YAMAHA音楽教室の関係者並びに習われておられる方々を、完全に敵にしてしまった。

それは昔から言われているコトが一因にある。美術では、結局のトコロ石膏デッサンといった受験方法が、その後のナニガシカにナンのイイコトがあるのだろう?というヤツだ。

ワガハイは石膏デッサンやる位ならば、人物や人体を描いた方が圧倒的に勉強になると思う。で、それは分かっている人は分かっているコトなんだが、実際の試験会場でそれをやるとなると・・・という問題から、石膏デッサンになるんだろう?

音楽の場合、それがもっとレッスン初期から始まるコトが問題だと、Fさんは語っていた。先ず、楽譜を見て弾く・・・のではなく「耳から入ってしまうのがイイんだけどねぇ・・・」という。楽譜の読み方なんて後回し、とにかく「聞くコト」が一番だと言っていた。

次に、一曲を間違えずに弾けるようにしようとする姿勢が気に入らないと言っていた。ではど~いうコトかというと「味わいなさい」という。さまざまな曲を弾けるようになって、指もアクロバット的に動くコトに観客は大騒ぎするけれど、そういうコトを問題にしているのではない・・・らしい。

それで音大に入りました・・・ある時、曲の解釈で悩んでしまう。そして先生に教えられるまま。Fさんは「そんなの、人に聞かなくたって、楽譜に書いてあるんだよ!」となる。つまり「楽譜の読解が表面に終わってしまっている」というような話だった。

ま、Fさんを天才としてしまえば、そうなのかもしれない。しかし、Fさんのレッスンは、音大生に執拗に聞く(味わう)コトを勧めたようだ(特に左手)。そうしてある時、その方は見開かれるように耳が開くようになるコトがあるらしい。そこまで頑張るらしい。

とりあえずFさんの話しはこれ位にしておいて・・・コレって知っている人ならば、かつて灘中で行われていたスロー・リーディングを思い浮かべるかもしれない。ワガハイは詳しくは知らんが、中学3年間をかけて一冊の本を読む授業だったらしい。

まあ・・・ソレが出来る環境っていうのは灘中だからという前提はあるだろう。でも、教育現場でのコトではなくて、一冊の本と徹底的に付き合う読書というのも、人生のどこかで経験してもイイと思う。

 

そういう本に巡り合えば・・・だけど。

 

ワガハイ的には子供の頃の読書環境はよろしくなかった。だから学校の図書館で休み時間を過ごし、読むコトが多かった。貸出っていうのは使ったコトもあったけれど、荷物が増えるのが嫌だった。ナニせ虚弱児だったからなぁ。

それでハマってしまった本があった。それが「シートン動物記」だった。ハイイログマや「ぎざ耳うさぎの冒険」の話しは何度も読み返した。そして読み返す毎に感動が異なり、物語の印象も変化していくのが興味深かった。気付かなかったコトに引っかかったりしたから。

でも、直ぐにそういう環境も失ってしまう。いつまでもシートン動物記ばかり読んでいる子供の様子に、親は余計なコトを言ってしまう・・・

「他の本も読みなさい!」

そして小学校高学年になって、別に私立中学受験など目指したワケではないので・・・と言いながらも、学校のテストで成績が上がらないのでは困るという現実において、ドリル練習の詰め込み教育となった。そして自発的読書から離れていってしまった。

ガッコの成績は上がったけれど、つまらん日々だったなぁ。

 

さあ、現在の子供たちの教育現場がどの様な感じなのかはワカラン。だが、昭和40年代の状況よりはマシになっているだろう。我が世代は児童数も多く、教育も量産体制といった様相だったからなぁ。

競わせてふるい落とす・・・

 

その後突如として読書熱が上がった。それは中学2年の頃だったか?その時は乱読・速読だった。とにかく毎日一冊は読み上げてしまう。そうして本の内容はアタマに入ってしまった。そういう感じで教科書もサッサと読んでしまった。

数学はねぇ・・・チト、そ~ゆ~ワケにはいかなかったけれど。

こういうのも、ナニガシカの訓練ではあるけれど・・・

以後の読書については中略。

 

それで成人し、仕事も始めてから友人から聞いた興味深い本がコレ ↓

天沢退二郎 宮沢賢治の彼方へ 思潮社

20代のワガハイは、ナニかというとこの本を読み返した。そのため、な~んか製本が緩くなってしまっている。

たぶん、宮沢賢治ファンならば知らぬ者はいない名著だと思う。そして今でも入手出来る?のだろうか・・・

www.chikumashobo.co.jp

ちくま学芸文庫になっているみたいだ。

本当に「読む」という世界の扉を開いてくれた一冊だ。この本でワガハイは読書が始まったと言っていいと思う。言葉を味わい尽くそうという読み方に気付いたのだ。

 

そういう本に出合うのは、人それぞれの質とタイミングがあると思う。みんな、どの様な「目からうろこ」的な読書体験があるのだろう?

 

2000字を超えたので、また次回。

 

潔癖過ぎるのは恐ろしかぁ~~~!

朝からイロイロ動きまわっていたので、本日は更新が遅くなった。

師走でございます。

 

さあ、昨日 ↓ の続きを書こうと思う。

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「ドイツ的な無骨さと粗さ・・・」といったコトを書いたんだが、それはゲルマン民族の質なのかもしれないと、昔は思っていた。だが、老いるにつれてちょっと違うかもしれないと思い始めた。

J. S. Bachさんの作られた数多くの作品の大半は(といったって、網羅するまで聴いたコトはないけれど)、徹頭徹尾音楽なのだ。

それはどういうコトかというと、映像的イメージが出てくるコトがあまりない。出てくるとすると幾何学的なイメージが浮かんでくる。たぶん、均整のとれた音楽なのだ。つまり欠落のない神への捧げものとしての羊のような心構えで、バッハさんは作曲しようとしていたのではないだろうか?

そういう音楽だから隙が少ない。というワケで、ワガハイは聴いていると触発されるコトは多いけれど、リラックス効果はほとんどない。神経が活性化してしまうのだ。

 

つまり、な~んか、こういう雰囲気がどこからやってくるのか?というと、完全なモノを求める潔癖さから生ずるコトもあるのではなかろうか?そう思ったのだ。ルターの宗教改革も、ローマ・カトリックの腐敗への反骨精神なワケだし、粛清なんである。それがああして、こ~なったのだった。

というコトは、以後、カルヴァンさんやツヴィングリは更に粛清を強めたワケだから・・・ルターさんじゃ生ぬるい!ってな感じだったんだろう。そうして神に仕える者の潔癖さをより追及する感じなワケだ。ま、あまりに大雑把な説明なのはご容赦願いたい。

そういう潔癖を求める中には、どこかストイックと裏腹にヒステリックな感性を感じてしまうワガハイなのだ。そういうニュアンスはバッハの音楽にも感じる時がある・・・(そりゃそうかもしれない、バッハさんはドイツルター派のある意味最も充実した時期のライプツィヒ・トーマス教会のカントルだったのだから、その充実したっていうのは、やっぱりそ~ゆ~時に凄いのが作られるというのは世の常。その時は異様な程の猛烈な教会音楽が出来上がったというコトだろう。)

 

でもなにか・・・それは人工美が過ぎて、時に気持ち悪く感じてしまう時もある。そしてそれは昨今のドイツの美術表現にも感じられる時がある。

ま、これはあくまで個人的な印象の話しでしかないけれど。

潔癖って、イイこともあるけれど、チト厳しいコトもあるからねぇ・・・

ナニゴトもホドホドというワケにはいかない人間という動物の習性もあるので、徹底的に行けるトコロまて行っちゃう・・・みたいな感じ?

で、クラッシュしてしまったりする。様々な局面でドイツの対応は素早いけれど、ワガハイからすると、やや過剰反応だったりレスポンスが良すぎてしまうと感じたりして、怖くなるコトがある。

対して日本はノロマにみえてしまうけれど。

 

というような質と似たようなものを、マズアさん指揮の演奏に感じているような気もしているこの頃なのだ。

でもまあ(1)・・・マズアさんが小澤征爾さんのような演奏をされても意味がないし、その逆もそういうコト。

でもまあ(2)・・・カラヤンさんの演奏にも、マズアさんと似たテーストを感じたりするな。あと、ドイツではないけれど、ブロムシュテットさんは・・・もっと厳しかぁ~~~!

 

宮沢賢治の彼方へ

たぶん、明日は上画像の本から少々と、スロー・リーディングという灘中で行われていた?授業について聞いた話など絡めて、ピアノのババアことFさんとのコトを書くだろう。

それは「見るというコト・聞くというコト」について。

 

クルト・マズア指揮のベートヴェン第九に絡めて・・・雑稿

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上リンク先の12月7日の内容にナニか追加してみようと思う。それは「ゆるり ゆい」さんからコメントを頂いたので。別にそのコトへの返信ではないけれど、ふと思い出したコトがあったので書き留めておきたい。

今日はこのブログを書き始めた年、2020年8月3日のブログ(下リンク先)の内容にある「我が人生において最高に面白いババア」との思い出話になる予定。8月7日と併せて参照されると嬉しい。

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ババアと書き続けるのもナンなので、ここからはFさんとする。東京音楽学校を卒業されているけれど、ピアノのはじまりは教会での伴奏からのようだった。大正ナン年生れだったかは忘れたが、日本が戦争に向かっていく時代に生まれ育った世代の一人だった。

そのFさんとは音楽に限らず、芸術表現全体について多くの時間を費やして雑談した。もう二度と、あんなに興味深い時間は訪れないだろうという素晴らしい時だった。それはFさんとしても同じ気持ちだったようで、ナニかというと雑用を頼んできてはワガハイを呼んだ。

ある時、クリスマスシーズンに入る頃にCDを手渡された。それがクルト・マズア指揮、ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団のベートヴェン第九だった。

Fさんは東日本大震災の前に旅立ったので・・・もう、そんなに経つのか。

そう思うと、急に再会したい気持ちになってくる。充分に話せてなかったコトもあったし、確認してもらいたいコトも残っていた(この件はまたいずれ、書けたらいいケド)

クルト・マズアさん

さて、この第九の演奏で指揮をされているクルト・マズアさんは、ワガハイがいちいち説明するまでもない方なので割愛する。で、不肖悦朗、何故かマズアさんとは一度だけ至近距離でご挨拶したコトがあった。

いやぁ~~~コワモテ!ちょっとビビった。でも優しい人らしいけど、眼光は鋭かった。コチラの能力や才能、質を瞬時に見定めてしまうような怖さを感じた。ま、流石カリスマだった。

 

ま、思い出話はこれ位にしよう。本題に入る。

 

で、マズアさんの演奏というのは、ワガハイの耳には総じてやや粗い印象の演奏と感ずる。ダイナミックと言った方が良いのかもしれないけれど。だが、素材の剥きだし感覚とすればソリッドという言い方なのかもしれない。

一方、小澤征爾さんだと磨かれた印象を持つ。それはやっぱり日本人的な感性にも思える。

で、このソリッドな雰囲気が理由なのかワカランが、ドイツでは熱狂的なコンサートの盛り上がりになったという。現地で聴いたという知人によると、ちょっと付いて行けない熱狂さ、だったそうだ。

なんとなく、それはドイツ車と日本車の違いにも通ずる点があるかもしれない?

こう言ってはなんだが、ドイツ的な感覚の中には日本にはない無骨さと、粗さがあると思っている。それはドイツの適当な街中をブラつけば感ずるのではないだろうか?

そいう文化性からくる感性の差異、というコトなのかもしれない。そしてその日本人であるワガハイからして差異を感ずる感触というのが、アメリカのナニガシカにも通じていると思う。それはイギリスというよりはアメリカだ。という点は、アメリカの成り立ちを探っていくと引っかかる点はある・・・というか、ドイツ語と英語の関係性?そういう言語の問題も、なかなかに影響するのかもしれない。この辺りは勿論、専門外だから感覚的な話に過ぎないのでご了承願いたい。

 

とにかく、異文化のものを異文化として、ある種の違和感を感じながら享受するというのも大切、というか興味深い。だからこそ、快適ではなくても外国製の製品などをたまには使ってみるのも学びがあると思う。

楽家、特に西欧音楽をやるとなると、その本家は日本ではないから・・・やっぱり一度は外に出て学んでみたくなるのが人情というもの。ソコでナニを身につけてくるのかは人それぞれ。音楽家でもの凄く親しい人はいないので、絵描きに関して言えば・・・大してナニかを身につけてきたとは思えん。

作品・・・ナニか変わったか?

ただ、経歴にナニガシカが加わっただけじゃね?

 

ま、その海外経験を血肉にするには暫くの醸成時間が必要だというのは分からんでもない。でも、ホント・・・ナニか変わった?という方が多いような気がする。

一方、なんか・・・根拠はないけれど、音楽の世界の方があるような気がする。

ま、そもそも演奏家というのはソロの場合もあるけれど、バンド活動となると異文化構成メンバーでの演奏となる機会も多い。そういう機会の多さが音楽家と美術家の違いか。

美術家・・・籠って一人で制作していたら、何処でも大して変わらん!

 

まだ、本題に入り切っていない。もう少し頑張って本題に近づいてみたい。

 

異文化の表現を読み解くコトは難しい。感覚的に享受するにも時間が必要。だが、結局はキリスト教圏ならばキリスト者は基本、通ずるものがあるから、なんとなく話が早いトコロはあったりする。

そんなワケで、たぶん今でも相手国の文化を感覚的にも享受しようとしたら・・・いや、頭での理解ではなく感覚で捉える方がより、宗教観が影響する点は否めないだろう。だから彼の国の方々が日本にやって来て、別に仏門に入る必要はないけれど、何処かで仏教的・神道的ナニかを感覚的に享受してから始まる表現、という点もあるだろう。

日常的に神仏を忘れていても、習慣として根付いて価値観に沁みついているから。

 

ま、分かり辛い内容になってしまった。でも、問題は分かり辛いのだ。

クルト・マズアさんの演奏が、やや粗く聴こえるという感想はワガハイのみではない。複数の方々から同意もあった。

 

だが、老いてきて一つ感じたのは、やはり荒ぶる神への・・・という向き合い方が、マズアさんの感性の何処かにあったのかもしれない、と思ったりするのだ。このことについてFさんと話してみたかった。

 

本日、少しだけ本題に入った。長くなったので稿を改めようと思う。

 

54歳突然の訃報に驚き・・・教会カンタータを聴きなおしている BWV.84

数日前に掛布団を厚手のものにかえた。それまでは、ジャパネットたかたで一時もの凄くお薦めしていた夏用羽毛布団にフリースの毛布?を使えば大丈夫だった。それはかなり以前にも書いたように思うけれど、夏用としては暑すぎる布団?なのだった。

少なくとも神奈川県南部地域に居住する身においては。

大方の夫婦がそうだと思うが、女性の方が寒がりの傾向があると思う。そんなコトから我家でも圧倒的に妻の方が耐寒性能の良さそうな布団を使っている。それだとワガハイは冬でも暑すぎてしまうのだ。

築およそ30年を経た我家だが、当時としてはソレなりに断熱性能の高い物件とされていたので、昔の木造住宅の暑さ寒さからは比べ物にならない。最近の住宅性能はもっと断熱性能が高いらしいけれど。

それでも、これからは地球熱帯化だから、冬の寒さに関してはあまり心配要らないのかもしれない。

 

昨年の暮れは腰痛が悪化して整形外科に行き、腰椎が変形して擦り減り、坐骨神経痛になっているというコトだった。つまりもう一年、整形外科通いをしている。でも、腰の牽引は気持ち良い。腰の状態だけでなく、背骨全体に良い影響が感じられて肩こりが軽減されるのだ。

最近は、腰よりも肩こり軽減の効果を期待して牽引に通っている感じた。もっとも、腰がダメだから背骨全体にその影響が及び、肩こりも発生してしまうのだろう。

この件も完全治癒は・・・まず見込めない。騙し、やり過ごす対症療法だ。それで収まらなくなれば手術という選択肢もあるみたいだけれど・・・どうにもならなければ仕方ない。だが、やっぱり手術が好きな人なんて居ないだろう。

そういえば、長嶋一茂さんが人工関節手術を受けていたらしい。驚異的な回復力だったとか。そういう例外的と思える事例って、全く参考にならない。というか、本人も自身が最強・屈強であるコトをアピールしたいという見栄?があるのかもしれない。

ま、とにかくアスリートっていうのは、別の特殊な人間という動物だと思う。ワガハイなど、同類の人間という動物とは思えない。真似するとトンデモナイ危険を味わうに違いないと思っている。

 

西田敏行さんの訃報に続き、火野正平さん、そして中山美穂さんと、なんだろう・・・我が世代に馴染み深い芸能人が次々と旅立たれた。だが、中山美穂さんは年下だけにちょっと辛い。別にファンでもなかったけれど。

死因は「入浴中に起きた不慮の事故」と報道された。54歳。それは勿体ない若さだと思うけれど、50代半ばは微妙な年ごろだ。まだまだ頑張れる50代、だが同時に体力の衰えも感じる頃。実際の自分の体調を過信し無理して、手痛い目にあう可能性も高くなっている。

ワガハイの腰痛も、結局は30代から累積してきた腰椎の変形なのだろうし、それでも体力と筋力で動けた。それに軟骨も減ってはいなかった。それが遂に耐えきれずにクラッシュしたのだ。

そういうクラッシュの予兆が、ナニガシカ中山さんの身にも起こってはいなかったのだろうか?もし、そういう予兆があったなら、慎重に対処していたならこの事態を回避出来たかもしれない。

今さら、そんなコトを言ってもど~にもならないけれど。

人生いつかはご冥福を祈られる立場にはなるけれど、54年の人生は言うまでもなく勿体ない。ファンでもないのにいろいろと思ってしまうという、やはり大物だったのだ。

 

BWV.84 われはわが幸に満ち足れり

このところ、気になるトコロだけ教会カンタータを聴きなおしている。宗教音楽だけに万人受けする音楽ではないだろうが・・・というか「バッハなんて暗い」と言われ、「女の子にモテない」と言われた高校時代だったからなぁ。

クラシック音楽全般にわたって、多くの同級生とは話題を共有出来なかった。それは今でもそうなのだろうか?その中でもカンタータは最強の部類に属するかもしれない。特殊な音楽・・・そう思われる方も多いだろうなぁ。

クラシックファンの知人でも、教会カンタータを聴いているというと変な顔されたりするから。

でも、中には聴きやすい楽しい曲調のものもある。そういう一曲を今日は紹介しておきたい。先ずはバッハ教会カンタータYoutubeで聴くならば、以下がおススメだろう。

www.youtube.com

この中から「J.S. Bach - Cantata BWV 84 "Ich bin vergnügt mit meinem Glücke" 」を探す。その中の「08:26 Aria (Soprano): Ich esse mit Freuden mein weniges Brot」がおススメ。つまり以下リンク先である。

https://youtu.be/A3YA_YzBugI?si=pThL6ta1ROPvhmwN

カンタータを聴いたコトがない方は一度どうぞ!

歌詞は以下リンク先を参照されたし!

www.jade.dti.ne.jp

前回の教会カンタータの記事は以下リンク先。

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江戸朝顔は多年草になるのだろうか?

記事を少し書きためておいたりして、ナンだカンだで毎日更新が続いている。だが、先月にその書きためたモノは全て公開したので、またポチポチ時間のある時に書きためておこうと思っている今日この頃だ。

今日の内容は、まさしく先ほど撮影した我家の狭い庭なので新鮮なネタだ。そんなワケで、内容的には誤字脱字その他、諸々の問題を抱えた状態で公開してしまうかもしれない。

やはり書きためておいたモノは、時々チェックして推敲などする時もあるので、公開後の修正がまずない。その分、なんとなく勢いが落ちる感じもするけれど。

昔の紙媒体での公開は、何重にも校正をやって校了となり印刷する。でも、その仕上がりを見て「正誤表」が作られてしまうコト多々あり。ナンでだろう・・・今でもPC画面上で散々チェックして、しかも複数の人間がチェックして、その後にプリンターで紙に出力してチェックして入稿しても・・・出てくる間違い。

そしてさらに数年を経て読み直した印刷物に、間違いを発見したりする。大概、微妙な文字間違いだったりするけれど。

でもそれは仕方ないのかもしれない。大手出版社の手練れの編集者が関わったはずの出版物でも、初版はイロイロ出てくるケースがあるから。

凄い昔・・・活字を拾っていた頃は、印刷屋さんから電話で「ここ、間違ってない?」ってな問い合わせがあったというコトも聞いたけれど。そういうのもオフセット印刷になってからは聞かなくなった。

勿論、活字の拾い間違いも起こるけれど。

 

さて、本日の我家の狭い庭の一部だ。

品種不明のモミジ

モミジは、一応紅葉した。神奈川県南部の寒暖差が緩いトコロだが、こんな感じになった。葉の痛みが少なかったのか、今年は割と綺麗に発色している部分がある。そしてその綺麗な部分を中心に撮った。

だから、全体が綺麗に紅葉しているワケではない。そしてアップに耐えられるような状態ではないので、なんとなく・・・中途半端な構図でお茶を濁した。逃げの構図である。それでも今季の我家の紅葉記録だ。

主にフジの枯葉

階段にはプランター植えのフジの枯葉があった。黄色く色付いたフジだが、落葉して鮮やかな黄色を失いつつある。フジ以外にはブルーベリーと、ブドウの落葉がある。

そしてこの斜光線がつくりだす影の長さが冬景色だ。

そう!季節は冬なのだ。一昨日、神奈川県山北町の国道246号を走っていて、平行する東名高速の法面等から生えている木々の紅葉が綺麗だと思った。だけど、なんとなく数年前だったなら11月末の雰囲気だったような気がする。

勿論、老人の記憶などアテにはならない。先ほども洗濯洗剤が少なくなっているのに気づき、後でカインズホームに行った時に買っておこうと思ったんだが・・・買い物リストをメモしようと思ったら・・・「アクロン」という名前が瞬間、出てこなかったのだ。

ど忘れ・・・だと思うけれど、こういうのが頻発してくるとヤバいよねぇ。

「あ、アレだよ。なんだっけ?アレアレ!」

常套句にならないように注意しようにも、当人の努力だけでは痴呆は防げそうにない。ま、ボケたらボケたなんだろうが・・・

当ブログも、毎日同じコトを書くようになったら、極めてヤバい。もっとも既に大した内容ではない点では、ちょっとヤバいかもしれない。公に閲覧出来る状態のブログなのに、大した公益性はない、よねぇ。それでも僅かなアクセスがあることに、やはり励みになる。読まれた方、有難う。

エドアサガオが一輪

江戸朝顔は、なんと一輪だけ小さな花を咲かせていた。このまま越冬出来るか?

越冬して春に新芽を伸ばすコトが出来れば、遂に朝顔多年草の仲間入りだ。それは交配による品種の変化がない・・・というコトになるんだろう。

引っ越してきたばかりの頃は、周りは空地だったので日当たり良好過ぎた我家。ゼニアオイが多年草化して巨大になって、流石に邪魔過ぎたので切ったところ、その茎の断面に年輪状の輪があったからねぇ。朝顔もそういう様になるのだろうか?

もっとも、周囲が建て込んできたので日当たりは以前程ではない。お陰で我家の暖房費が増えると思いきや、地球熱帯化の恩恵により、ここ数年は石油ストーブがお蔵入りしている。エアコンだけで十分に過ごせてしまう。一応、非常時に備えて石油ストーブは処分しないでいるけれど、今年は掃除をして、少しは使わないとコンディションを保てないかもしれない。

 

でもまあ・・・そういう器具のメンテって、やるのはワガハイ。まだ体調が完全復帰ではないから、コレは先送りか?

新潟では降雪・・・そういうニュースが流れた。知人夫婦も薪ストーブを使っているのだろう。我が地域では薪ストーブ・・・暑すぎてしまうだろう。やがて新潟でも薪ストーブを使う必要が無くなるのだろうか?その頃、我が居住地域では真夏は過ごすコトが出来るのだろうか?

 

前回の江戸朝顔の記述は以下リンク先。

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たまに長文の言い訳と「さば缶」について

昨日はいつもより長めのブログとなった。だいたい3000字程度だったと思う。

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通常、1700字程度でまとめる方針なんだが、たまには長文(という程でもないかもしれないが)も書いてみないとボケ防止効果が弱いかと思った。それに昨日のネタは、短い文章でまとめるとなると数回に分けて書くコトになるだろう。

もっとも、章立てにして分けた方が、より詳細に書けるけれど・・・キリスト教に関わるネタというのは、あまり歓迎されないような気もするので一回で書いておくコトにした。

まあ、別にアクセス数は気にしてはいないけれど、あまりにも読まれないというブログをやっていてもねぇ・・・遣り甲斐が薄くなるから。

でも、コトはついでに・・・いろいろ問題はあれど、日本の近代化は西欧のシステムを学んだだけではなく、その思想読解には神学も必須だった。そして今よりも多くの人たちが、とりあえず宣教を聞いていた。その影響は賛否は置いておいて無視出来ない。そうして今の日本が出来上がってきたのだから。

というワケから、例えば水道という概念、そして技術も、単に技術を学んだだけではなく、その大本はキリスト教会ルートだったコトもあったという。今ではそういうコトは何故か伏せられてしまっているけれど。さも、日本人の優秀さの話しになってしまっているようにも思うけれど。

 

ま、昨日の件はこの位で止めておこう。こういう話を不快に感ずる方もおられるだろうから。

 

さて、やや長文を書いてみたのは以下リンクの内容の影響を受けたのだった。長文の読解力については、やっぱり寄る年波の影響は出てきた。脳味噌の一時メモリー量の減少を感ずる。

この歳まで中学・高校の頃の記憶力が維持できるとは思わないけれど・・・あの頃は凄かったなぁ。ザクザクと読めば読んだだけ言葉は入ってきた。それは単に暗記力であって、その意味を深く噛みしめるコトとはチト違っていたかもしれないが。

暗記力と読解力は、イコールというワケでもないからなぁ。

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メモリ不足の現在の方が、圧倒的にゆっくりになった分、味わって読んでいる気がする。そして場合によっては読書中に止まる。そして想い考える時が増えてきた。そこから読み戻す時も増えた。そうすると改めて発見があったりする。

いや、単にストーリーが曖昧になったから確認の為に後戻りする時もあるけれど。

ま、読書といっても様々なジャンルの多様な書き手によって、その読み方も変わってしまうのは当然だけど。

それで、それなりに老いて、それなりに人生経験を積んできて、かつての文豪の小説など読む・・・気にならないんだよなぁ。

川端康成・・・読まんねぇ。

谷崎潤一郎・・・読まんねぇ。

たぶん、もう一生、読むコトはないだろう。

なんか、チラッと見るだけで下地が見えてしまうというか、特に川端は嫌味が勝ってくるのだ。コレ、酒や珈琲のテースティングと同じコトを言っているかもしれない。

 

というワケで・・・飽きずに美味しく頂いているのはコレ!

さば缶

さばの水煮缶は健康に良いと評価が高い。EPAとかDHAとか、そういう物質が身体にとても良いというのだ。ワガハイ的にはコレを食べたコトで健康に好影響が生じたような経験はない。ただ手軽で美味だし、ストック出来るから数缶を常に備蓄してある。

割とKALDIで売られている上画像のモノを使う機会が多いけれど、別にコレに拘っているのではない。でも、缶のデザインは目を引くので、KALDIに行けばこの缶詰の前を素通り出来ない。

 

さて、さば缶の健康効果については様々な記述が既にあるので、ワガハイが多く語るには及ばない。だが一つだけ・・・知人の彫刻家が何らかの体調不良に見舞われて医者に行ったという。それで服薬に頼りたくなかった彼は医者にそのコトを告げると・・・

「ならばサバ缶食べなさい」

つまり処方は「さば缶」というコトになった。それで暫くは薬のつもりで毎日食べたらしい。するとひと月ほどで症状が楽になったという。

こういう話は巷に多いけれど、それは症状とその人の食材との相性にもよるだろう。だから彼が成功したからといって、ワガハイが真似しても同様の効果が得られるかどうかは・・・ワカラン。

ま、もっとも処方薬だってその効き目は患者それぞれで違う。薬の治験情報を見れば効果が無かったデーターだってあるのだから。

 

とにかく、健康志向はあるけれど、さば缶は便利で美味だから食べる。我家はただそれだけ。多分、気付かないトコロでEPADHAが効いているのかもしれないけれど。

読書も、ソレを読んだからといって、ナニかが劇的に変化するなんてコトは滅多にないからねぇ。

そう思うと、昨日のバッハの教会カンタータは・・・人によってはやや劇薬的な効果があるかもしれない。

 

BWV.85 Ich bin ein guter Hirt(われは善き羊飼いなり)で泣く

J. S. Bachの教会カンタータ

ヨハン・セバスティアン・バッハさんが教会歴に合わせて作曲された礼拝音楽だ。そういうワケだから大変な量の曲がある。それを全曲演奏し終えた鈴木雅明さんとバッハ・コレギウム・ジャパンのCDの画像だ。

1995年から始めた全曲演奏と録音は、2013年2月に完結したのだが、その後半数年間の、何回かの公演を拝聴するコトが出来た。

カンタータについて、アレコレと専門的なコトを書くのは、その道の方々にお任せするとして、ワガハイ的には単なる音楽ファン並びにイエスの兄貴を慕う老人としての思いなど、チト書こうかと思う。

 

ま、言うまでもなく宗教音楽と言われるものだけに、それがかつてのドイツでのルター派信仰の礼拝で、どの様に位置付けられていたのか?は、ある程度の前提として学んでおくに越したコトはない。

つまり、たぶん・・・現在の礼拝の中で、このカンタータを演奏するのはチト、厳しいと思う。ワガハイ、ルター派の礼拝は知らんケド。

もっとも決定的なのは、やっぱりキリスト教信仰があるか、ないか・・・で、その音楽鑑賞はまるで違ったコトになってくるだろう。それは宗教画は言うまでもなく、ゴッホの作品を鑑賞しても、全くといってイイ程に違ってしまうのだから。

宗教っていうのは、それを信仰する者にとっては時代を超えて共有する価値観だけでなく、極めて感覚的でエモーショナルな問題なのだ。

それは、仏教でもそういうコトになる。

現在では、洋の東西に関わらず、特に先進国の宗教離れ、もしくは新しい信仰の力が増えて、伝統的な宗派がなんか元気を失ってしまったようなんだが・・・それは、たぶん伝統的な様々な風習の裏付けも失うコトに繋がるのだろう。

な~んか、祭のナニかが抜け落ちてしまった感がある時が、あるから。

ま、そういう時代の流れならば、逆らいきれるモンでもない。ワガハイも流され、漂うしかない。

 

もっとも、伝統的な宗教がどれだけアコギなコトをやってきたかという批判に関しては、ワガハイも同感する点は多々ある。しかし、それは所詮、人間という動物が行うコトなのだ。人が集まれば組織になり、組織を維持管理するというのは政治の世界と同じコトになる。永田町の腐敗が言われ続けるように、バチカンだって同じコトだ。

ただ、ナニに基づいているのか?の違い。神(の律法)に基づく(いや、基こうとする)か、法に基こうとするか、だ。

常識というのは、場合によっては共有できない価値観の場合もあるからねぇ・・・

ま、ナニガシカの拠り所が必要になるのが、集団で生きていく人間という動物だ。これは習性と言ってもいいだろう。そしてより、自分の都合の良い習性を提示する政治家に投票するのが民主主義みたいだ。

民主主義も完璧ではないから・・・これは極めて理想像だから・・・実現には知性(!)が試され、時には歯を食いしばって自由のために我慢もしなければならない。決して安易な方法ではないよなぁ。

だから、嫌な言葉だが「民度」が試されてしまう。

ニュースでは、世界のアチコチで国の統治に関わる事件が勃発し続けている。日本も少数与党の状態になった・・・っていうのは、決して悪いコトではないと思うけれど。ど~も芳しくないような動きに思われるニュースもあるから、ココロ暗くなるんだよなぁ。

ほんの少しの優しさがあれば・・・ウクライナのコトだって終わるだろうに。それは極めてシンプルなコトなのだ。戦争は止めれば良いのだ。核兵器は捨て去れば良いのだ。

然り、か、否、かしかない!

勿論、この件は否!を選択すれば良い。ソレだけではないか?他に複雑なコトはない。

それが昔々から出来ずに今日に至っているという伝統?は、新しい衣に着せ替えなければならないけれど・・・そんなコトは大昔にイエスの兄貴が語ったコトだ。偉大な男の言葉が実現しない以上、人間という動物は、半ば地獄に片足を突っ込んで存在するしかない、というコトなんだろう。

「みんな!御国にいきたいかぁ~~!」

なんか、大昔のテレビで、そういう番組があったような気がするけれど・・・それは「御国」ではなかったな。なんだっけ?クイズ番組だったっけ?忘れた。

(思い出した...アメリカ横断ウルトラクイズだ!)

 

本来、私たちは御国に居るのだ。

 

神が作りあげた世界ならば、そりゃ、多少の欠陥はあったとしても、もう少しマシな世界になりそうなモンなんだが・・・

ならない・・・みたいだねぇ。

神が作りあげた世界・・・一つの理想郷という価値観に過ぎない、というコトか。

だが、諦めた瞬間に御国も終わる・・・というコトか。

ミココロガ チ二モ オコナワレマスヨウ二

祈りも諦めたら終わり。理想は理想のままでも、理想を失ったら・・・その理想も終わり・・・かぁ。

(いっそ、辞書から「理想」という言葉を消してしまったら・・・ど~なるんだろうねぇ?)

っていうか、祈りもまた・・・欲望なんだけどねぇ。

平和を希求する気持ちも、これまた欲望だろう。

「愛」という一言は、深いねぇ・・・

迂闊に使えぬ「愛」。

 

というワケで、ワガハイが子供の頃に楽天的に思っていたコトは、たぶん実現するコトなくワガハイは旅立つのだろう。まさか、核兵器をチラつかせる男の統治する国に、精度が悪いけれど破壊力はあるという兵器を供与する国が出てくるとは・・・。

こうなってくると、やっぱり平穏な世界はあの世しかない、というコトか。

この世に疲れ切った者にこそ、イエスの膝元にひれ伏す安堵を味わえる、というコトか。

 

暗いコトを書いていると思われるだろうが、悔しいのだ。でもワガハイも人間という動物である以上、「人間」を否定するコトは出来ない。僅かな可能性を見出して、それは一筋にも満たない微光だろうが、求めなければ・・・見えるモノも見えなくなってしまう、というのが、つまり信仰だろう。

残念ながら、そうした信仰を一つにしたカンタータの演奏が出来る環境ではない。ここでいう演奏とは、ミュージシャンと聴衆の両方の環境のコトだ。どうしてもナニかがナニガシカを薄めてしまっている感は否めない。それはこのCDの演奏でも窺える。

逆に、信仰ゆえに丁寧になり過ぎている演奏箇所もあったりするけれど。

もっと強く!あって欲しい。

それでも、聴けば目頭が熱くなるんである。これはもはや無条件反射といっていい。コレが信仰というコード(こういう言い方は誰かに叱られるだろうが)なんだろう。

 

たぶん、時を超えてバッハさんとも共有する感覚を味わっているかもしれないし、この曲を聴いた方々とも共有するだろう。それは案外、正確な共有のように思う。

そして指揮をされている鈴木雅明さんからすると、そういう奇跡が起こるコトに驚きを持って演奏されていたんじゃないだろうか?それが超長期戦となる教会カンタータ全曲演奏を支える原動力の一つになったのかもしれない。そんなコトを思いつつ、お久し振りのバッハ・コレギウム・ジャパンのCDを聴いた。

特にBWV.85 Ich bin ein guter Hirt(われは善き羊飼いなり)!

そして「Choral (soprano): Der Herr ist mein getreuer Hirt」で涙止まらず。

bachcollegiumjapan.org

 

BWV.85の歌詞(対訳)は、以下のリンク先。

http://www.jade.dti.ne.jp/~jak2000/page002.html#085

演奏は”BWV.85"でYoutube上に幾つかの演奏があるので、興味のある方は探索されたし!

※「人間」というカギカッコ付の書き方は、お久し振りだ。ただの人間、という意味ではないコトは以前に書いた内容に暗示した通り。