昨日は相模原市内を移動した。
ところで、ワガハイの世代の中には一定数、相模原と聞けば思い出す歌があると思う。それは、泉谷しげるさんの「ねどこのせれなあで」。
♪ あした相模原まで、出刃包丁を買いに行こっホホっホホ・・・で終わるんだったかな?
いや、さがみはら、ではなくて、さがみっぱら、って、歌っていたかもしんない。
ま、知らん人は検索すればゾロゾロ出てくるだろうから、我が説明は省略とする。
昭和40年代の相模原は暗いイメージだ。それは今から思えばアチコチが暗い印象となるけれど・・・ワガハイ的には、その最たる地は横須賀だった。あの町の幼少期の記憶には色彩がない。ローキーなモノトーンだ。だから、そういう地の出身という表現に明るさを感じないと思うのは、ひょっとすると我が刷り込みと重なってくるからなのかもしれない。
あるいは、僅かな影が我が心の中で増幅されてしまうのか。
だいたい、あまり好きな街ではないので、横須賀の・・・あの政治家もイメージが良くなくなってしまう。
もっとも横須賀生まれの人にとっては思い出の場だから、そうした我がイメージに好感できないだろう。我が父親も横須賀生まれだったから、ワガハイの横須賀嫌いについては顔を曇らせている時期もあった。
横須賀海軍工廠だからねぇ・・・
という点と共通するのか、相模原も横浜線の線路脇に続く相模原補給廠(元相模陸軍造兵廠)の車窓風景(相模原駅~矢部駅)というのが子供ゴコロに刻まれていて、暗く怪しいイメージは今でも払拭されない。カドミウムの境川への垂れ流しやら、PCB保管のナンチャラで問題になった場でもあった。
まあ・・・米軍基地が絡めば、イロイロな汚染物質が問題とはなる。最近ではPFAS問題が勃発して、やっぱり厚木基地がやらかしていた。
残念ながら軍隊は、平和を守るというよりも、地域の環境を破壊しながらジワジワと住民の健康を蝕んでいくものなのだ。そういう見識を否応なく植え付けてくれた神奈川県内の米軍施設だ。
という問題地のひとつとなった相模原。一口に相模原といっても広うござんす!今ではイロイロ合併して、ド~考えても相模原ではないと思う津久井地域までもが相模原市となったから、我がイメージで言うトコロの相模原は、やっぱり横浜線沿線の風景なのだけれど。
というイメージからすると、「ねどこのせれなあで」の曲調と歌詞は、笑えないような当時の雰囲気を醸し出していると感じている。
ま、それでも沖縄県の状況に比較したら、神奈川県なんてアレコレ言う程のモンじゃないかもしれないが。
さて、昨日は「東林間」から裏道を縫って進み、しかも15年程のご無沙汰ルートという状況だった。ワガハイ、カーナビが嫌いなので付けてない。ただただ記憶と方向感覚で進んだ。これでも大きく道が変わってなければ間違えはしないだろう。街並みが少々変化している程度ならば全く問題はない。ワガハイ、交差点名や建物で道を覚えてはいないので。
ただただ、方角と距離感を記憶しているだけだ。まるでベクターソフトみたいなもんだ。これは父親譲りの感覚だ。父親は先祖代々の船乗りという感覚の持ち主だったから。
というワケで、無事に記憶通りに小田急小田原線のガードを潜り、相模大野の街を躱し、米軍住宅のフェンス脇を通り抜けて「(元国立)相模原病院」の敷地境界を回り込んだ。本当はもう少し短絡出来るルートもあるんだが、昔の記憶を辿ってみた。意外と速やかに「勝坂」方面に抜けることが出来た。
勝坂は「勝坂式土器」という名があるように、その勝坂であるから、そういう遺跡があるワケだ。
www.city.sagamihara.kanagawa.jp
考古学に関心のある方ならば避けて通れない遺跡だ。だが、そこに至るまでの昨日のルート上には「新磯野」のヤードだらけの地域を抜けて行かねばならない。これがまた、相模原の風景でもあると思う。
相模原台地の上は畑とヤードと工場。下がると遺跡と田圃・・・そして相模川。その段丘のフチには「米軍キャンプ座間」とその住宅。アメリカと日本の国旗がたなびくのだ。
まあ・・・興味深く深読み出来る風景が多く存在しはする。相模原、座間、大和、綾瀬。神奈川県央部の風景は、とても複雑に雑多なのだ。

「街道をゆく」は全巻、読み通してはいない。読んだのは上画像のヤツだけだ。たぶん、司馬遼太郎さんも相模原については書いてない?のかなぁ。別に「街道をゆく」ではなくて、な~んか記述はあるのだろうか。そのうち、暇な時に調べてみよう。
扉のついた書棚から久しぶりに取り出した文庫本だが、やっぱり埃で薄汚れていた。軽く拭いて拡げて風通しを終えた文庫本を積み上げた図だ。