先日、久し振りに都内中心部に出掛けた・・・と書けば、ロクなことはないと想像がつくニュアンスだと思う。
端的に言って空気が臭かった。マスク無しならば数分で喘息発作を起こすだろう。こういうトコロに勤務し、まして居住出来る人というのは、頑丈に出来ているのだろう、と思うのだった。
絶望的な混雑に見舞われていた東京駅の中央通路を抜けて、丸の内北口から地下鉄東西線の大手町駅までの地下通路を歩く。ここを歩くのは少なく見積もっても10年振りだろう。そしてこの通路を自分一人で始めて歩いてから50年は経つ。親戚が東西線沿線に住んでいて、ソコへ向かったのだ。その時のコトなどを思い出しながら、殺風景な地下通路を歩いた。
昭和40年代?丸の内北口から大手町駅までは、地下通路で直接は繋がってなかったように思う。一度丸の内北口から外に出て、少し歩くと大手町駅への地下通路の入口があって、そこから長い通路を歩いたのではなかったか?
或いはそのルートの方が、当時のワガハイ的には迷わなかったのだろうか?
都会に憧れる・・・かぁ?
ワガハイは一度も、都内でアパートを借りて生活するコトはなかった。ず~っと神奈川県内をウロウロしつつ、都内へアクセスしていた。もう、絶対的に湘南~西湘エリアの方が住環境は良いから。
だいたい小児喘息が酷かった幼少期は高度経済成長期真っ只中だった。京浜工業地帯には黒煙を吐き出す煙突が立ち並び、石油コンビナートの煙突からは火柱が上がり、連続した轟音が響き続けていた。異様なテンションだった。そういうトコロには絶対に近づいてはならないという、小児科医からの指示もあった。
確かに小学校一年の頃、始めて家族で新宿に出た時、小田急線改札辺りでチト具合が悪くなった。薬で誤魔化しながら伊勢丹に行った記憶がある。その時のグレーな空気の色はしっかりと記憶に定着している。
思えば・・・あの頃のクルマのガソリンって、表示無しで「有鉛」だ。
人それぞれだが、ワガハイは今でも都内に居住したくない派だ。いや、出来れば都内に出掛けたくない派、だ。そもそも都会は永田町のオールキャストのような、獰猛な動物が生きる場である。そして、かつては江戸幕府で様々な人間模様にまみれた地、恐ろしきトコロなのだ。迂闊に近づくべきトコロではない。
というワケで恐怖の都内を、最短で抜けて帰宅。結局、昼飯抜きとなった。食物アレルギーの悲しき現実。迂闊に食べて苦しくなって、嫌いな都会の病院に救急搬送は嫌だ。
空腹も、暫くすれば忘れられる。水分補給だけは忘れないようにして。
とはいえ、「町田」で最後の用件を済ませると流石に小腹が空いた。小田急線の改札を入ると、目の前にイートイン可のパン屋がある。失礼ながらソコに触発されるコトなんて無かったワガハイだが、その並んだパンを見て・・・腹が鳴った。
「孤独のグルメ」・・・
いや、そこで食べずに、ショコラをひとつだけ購入した。

カフェスペースで食べる気にはならない。埃っぽいトコロでマスクを外して飲食できない。そんなコトをしたら・・・なので自宅持ち帰りなのだった(帰宅して速攻で食す)。
さて、ナンでこの様な環境に、パンがむき出しで棚に並んでいるのだろう?ワガハイは、それを購入する気にはなれない。このショコラは、袋入りだったから購入した。選んだ理由はそれだけだ。

ホントかウソか知らんが、昭和40年代の小学校の話し。ガッコの周囲は田園風景。そして空地が多かった。だから風が吹くと激しい土埃が舞った。その土埃の中には蟯虫といった寄生虫の卵が混ざっているコトがあると言われ、それが手に付くとか、知らぬ間に給食に舞い降りるとかしてしまうと、ガッコの教師たちは言うのだった。
これ、キチンと検証がされていたのかど~かは知らんケド。そして毎年行われる検査では、其れなりに陽性となる児童がいた。すると虫下しの薬が手渡されるのだった。
そんな記憶もあって空気中の埃には、いろいろあるには違いない・・・という神経質な子供は、大人になっても神経質なままだ。