文命西堤碑
酒匂川は、宝永四年(一七〇七)の富士山
大噴火による降灰のため河床が埋まり、岩流瀬
・大口付近は大水が出るたびに堤防が決壊し、
周辺の農民たちは甚大な被害を被った。
このため、荒川・多摩川の治水工事を手掛けた
川崎宿名主田中丘隅は、幕府の命により享保十
一年(一七二六)荒れ果てた酒匂川の改修工事
の指揮にあたった。
丘隅は、弁慶枠や蛇籠に石をつめ、その一つ
一つに僧侶が陀羅尼経を読んでから川岸に積み
上げ、堤が完成するとその上に中国の水神であ
る禹王の廟を祀った。禹王の別称が文命である
ことから「文命堤」と言われ、川の東西で西堤
(岩流瀬堤)と東堤(大口堤)とう呼ばれている。
この堤等の完成により、酒匂川流域の村々は
次第に復興していった。
この碑は、丘隅が文命西堤の完成を記念して
建立したもので、”享保十一年丙午夏五月二十
五日 武蔵国川崎 田中丘隅立”と刻されてい
る。また、文命堤の名については、東堤碑に詳
しく記されている。
平成六年九月
山北町教育委員会
いきなり説明板画像と、その書き起こしから始まった。場所は以下グーグルマップのリンク先を参照されたし。
先日までの「平山断層露頭」や「日向断層露頭」の位置より少し下流に位置するのが、本日の舞台となる神奈川県山北町岸にある「文命西堤碑・関東大震災復旧記念碑」だ。
内容は説明板の書き写し通りである。ワガハイの知識としても、これ以上のナニガシカを追記するものは持ち合わせてはいない。だが、言うまでもなく富士山の宝永噴火の痕跡は、至る所に残っているのがこの地域の特徴だ。
いずれ富士山も大噴火するとか、箱根が噴火したら富士山以上の大規模噴火になるとか、いろいろ言われる昨今だ。現代の進んだ科学的知見を基本に据えて、様々な対策がきっと講じられていることだろう。
嫌味も含めて・・・
性格悪いねぇ・・・我ながら。
当ブログは、ナンだカンだ言って宝永噴火絡みのトコロを折に付けて紹介してきた。もう少し一貫性をもってこのテーマに取り組めば、より分かりやすかったとは思うが・・・コチラも思いつきと個人的な都合でやっているのでご勘弁を。
というワケで、以下に当ブログの関連リンクが並ぶ。
これらは、酒匂川が西丹沢の山間部から、足柄平野に流れ出す際に位置するトコロの散策ブログだった。
それは災害の爪痕を残しつつも、それを攻略して復興していった知恵の痕跡でもある。そしてその恩恵を今も受けている。今さら言うまでもないが、田中丘隅という卓越した才能の指揮と、その大土木工事に携わった方々の手柄だ。
治水は統治の基本・・・なんである。水は生活に不可欠だし、水をコントロール出来るから灌漑が出来る。田畑が潤ってメシが食える。
だから水田って凄いと思わない?ただ田圃っぽい敷地をいきなり用意して、適当に水を入れれば稲が育てられるワケじゃない。もの凄い小規模ならば可能かもしれないが、それでは一家の消費分も作れないだろう。
その為には、なんと測量技術が必要になる。水は高いトコロから低いトコロに流れるのだから、一区画の水田は若干の傾斜を付けつつ平面を出さなければならない。丁度よく稲が浸かる水位を確保しつつ。
コレって、結構難しいコトだ。
そして次々と田圃に水が循環して行かなければならない。その水を引く大本の取水も考えなければならない。というコトは大規模な堰という設備が必要になる。
案外、こういった稲作に関係する問題が、日本の土木技術の礎だったりするのかもしれない。
というワケで、能登半島地震では、田圃に亀裂や段差が生じたコトが報道されたし、家が何十メートルも移動したトコロもあったという。そういう地殻変動というか、もっと身近な感覚で言うと・・・不動産が移動産になってしまった状況では・・・田圃の水がうまく流れないという事態になってしまうだろう。
もう、至る所、レベルを出し直さなければならない。
それに土地資産としても地所が動いてしまって面積が変わってしまったり、隣地境界線が狂ってしまったりしている筈。公図とズレまくってしまっているだろうから。それらを再測量して登記をナニガシカやり直すのだろうか?
こうしたコトは・・・ワガハイ的には最も苦手とする分野だ。
先ずは生活の再建、健康維持優先と言いたいが、案外こういう土地問題は早々に絡んでくるのかもしれない。固定資産税に絡んでくるだけに、お国の仕事だけにこういうコトは案外手早かったりして・・・勿論、嫌味を込めてますぅ~。
次回も、この「文命西堤碑」の場からのコトを書く予定。
「伊奈半左衛門忠順」も、宝永噴火に際しての偉人だ。静岡県小山町は、酒匂川の上流に位置する。