Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

2021年12月19日の続き・・・福澤神社に立っている説明板から脱線話

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神奈川県 酒匂川 文命堤の説明板

昨年(2021年12月19日)の当ブログで書いた福澤神社に立っている説明板である。前回では福沢第一発電所界隈の散策話だったが、書き切れずに残っていたコトを、本日は少し書き残しておこうと思う。

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例によって、画像からでは読みにくいと思うので以下に書き写しておく。

       文命堤

 酒匂川はかつて暴れ川と呼ばれ、大口付近でしばしば氾
濫し流路を変えていました。しかし文禄から慶長年間に
大口堤と岩流瀬堤〔からぜ〕が築かれ、ほぼ現在の流路に定まり、足
柄平野は水田が発達したと言われています。
 宝永四(1707)年に富士山が噴火して大量の火山
灰(黒色で多孔質な降砂)が降り積もり、酒匂川の河床
は浅くなりました。そのため、宝永五(1708)年と正
徳元(1711)年に、大口堤と岩流瀬堤は決壊し、下流
の村々は大きな被害を受け、その後の復興は困難を極め
ました。そこで、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗は、享保
八(1723)年に、南町奉行大岡越前〔えちぜんのかみ〕に命じて治水、
利水事業に詳しい、川崎宿の名主であった田中丘隅〔たなかきゅうぐ〕(休愚)
を遣わして、享保十一(1726)年に大口、岩流瀬
堤の復旧工事を完成させました。
 丘隅は大口、岩流瀬堤の上に、治水、護岸うぃ祈願し、
中国の治水の神とも言われる禹(称号は文命)を祀った
文命宮を作り、大口堤を文命東堤、岩流瀬堤を文命西堤
として、両堤を文命堤と名付けました。
享保十九(1734)年に文命堤は再び決壊し、丘隅の
娘婿で代官の蓑笠之助〔みのかさのすけが復旧しましたが、本格的な復旧
ができたのは明治時代に入ってからでした。
 江戸時代を通じ、酒匂川の治水は、流域に暮らす人び
とにとって悲願ともいえることでしたが、その成否を担
う場所として、文命堤はありました。

 平成二十一年三月
                南足柄市教育委員会

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酒匂川に架かる大口橋

まず、場所は神奈川県南足柄市山北町の境目に架かる大口橋界隈である。この橋の右岸に福澤神社がある。

平地から山間部に切り替わる場所なので、何となく気になる場所なんだが、改めてクルマを降りて歩くコトも少ない。今回の散歩では(例によって日没近い時間帯なので画像が暗いが)、この橋をはじめて歩いて渡ってみた。

これ、画像の枚数も多いし・・・数回に分けて書くことになるかなぁ。

 

説明板は福澤神社の境内、鳥居をくぐって右側に立っている。それをジックリと読んでみて、酒匂川の流れにも、いろいろ人為的な操作が加えられているんだなぁ・・・と改めて感じ入った。

全体に酒匂川っていうのは急流である。西丹沢に端を発した河内川と、富士山や御殿場界隈の水を集めた鮎沢川が合流し、その他幾つもの沢・川も合流するが・・・そのどれもがかなりの急流である。勾配がキツい地形なんだな。だから水力発電所が沢山あるワケだ。暴れ川のエネルギーで発電ってぇワケだな。

そういう急流が山間部から平野に流れ出る場所っていうのは、ちょっとイメージしただけで劇的なものがあることは容易に分かるだろう。富山県黒部川扇状地っていうのもそうだったが、発電所美術館というのを訪ねた時に、その界隈をウロウロ散策して・・・いやぁ~なかなか凄い地形だったなぁ。

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黒部川(ここも凄い急流だ)を遡って行くと、両岸が旧に狭まったところに県道13号の愛本橋がある。その橋上から上流側を眺めると、ちょっとゾ~っとするような迫力がある。すぐ上流側には愛本堰堤があり、関西電力愛本発電所があって、ワガハイは暫くボ~ゼンとしていたなぁ。

あ、脱線したな、話を酒匂川に戻そう。

ま、黒部川に比べれば、酒匂川の方がスケールダウンする感じはあるがねぇ・・・(普段の水量が違う)でも、やっぱり共通するのは山間部から平野への流れだしってぇヤツだ。ヤバイ場所なんだな。エネルギー感があるよなぁ・・・魅力的なんだが怖い。

 

説明板に記述された富士山宝永噴火だが、上流の小山町には伊奈神社があって、以下リンク先に関係するから興味ある方は読まれたし!

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ワガハイの脳ミソはノ~ミソであるから、説明板を読んでいてもロクなコト考えない。吉宗と大岡越前が出てくれば「暴れん坊将軍」である。なるほど、暴れ川だけに暴れん坊将軍なのか!とガッテンした??(アタマのなかではマツケンサンバが鳴り響いている・・ラベルのボレロよりはマシだな。)

松平健さんが主役の暴れん坊将軍は、富士山の、たぶん演習場内を使って撮影された白い馬に跨がる将軍の姿!であったなぁ・・・そうか!白馬に乗って将軍様が走りまわるから、その下流が暴れ川で氾濫するってぇワケか!ガッテン??マツケンサンバを踊る振動で川が暴れる?)

大岡裁きなんていうが・・・宝永噴火の災害復興募金って、大奥の修繕に使われたって話もあったような・・・これ、かなり以前のコトなんだが、NHKの「英雄たちの選択」で伊奈半左衛門忠順をやった時に、結構ボロクソに江戸幕府をコケにしていたよなぁ(暗に現在の政権批判か?みたいな感じでねぇ)

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大岡さんも、まあ人の子だから・・・いろいろあったんだろうねぇ。美談ばかりではなかろう。

あまり、神奈川県茅ヶ崎市の北部地域で大岡越前批判は宜しくないのかもしれないが・・・「大岡越前通り」ってぇのがあるからねぇ。その通り近くにある浄見寺は大岡家代々の菩提寺だからな。

 

また、やや脱線しかかってきたな。

 

宝永噴火のあと、酒匂川の治水は振り出しに戻ったんだろう。復旧工事を繰り返すが・・・やっぱり対策が後手後手になるから決壊を招いてしまう。いや、当時は重機もなかったから復旧にも今以上に長い時間が掛かる。間に合わないのは無理もないコトだ。いやまて!大して復旧工事を急いでいたとも思えない。大奥修繕の方が必死だったんだろう?

結局人々の悲願が叶うのは、政治体制が引っ繰り返って明治時代・・・西欧列強のいろいろな刺激を受けてからだ。あらゆるモノゴトがネジ巻されたのが明治時代だからなぁ・・・。巻きすぎて戦争に向っていったケドねぇ。

もしもわが国が文明国となるために、身の毛もよだつ戦争の光栄に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。われわれの技芸と理想にふさわしい尊敬がはらわれる時まで喜んで待とう。

(「茶の本岡倉天心著 桶谷秀昭訳 第一章 人間の碗 講談社学術文庫

ワガハイはよく岡倉天心のこの言葉を思い出すのだ。

 

美しい宮殿で綺麗でしなやかな服を着た人には注意した方がいい、ってぇのは、いつの時代にも不変だな。塵一つなさそうな長~い卓の両端に座って報告を受けたり指示を出したり・・・ネクタイを締めているとかいないとか、格好さえも挙げ足をとる材料に使うってぇのは・・・やっぱり人間という動物に進歩はないなぁ。

7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。

マタイによる福音書 11章7-8節 新共同訳)

極上の酒を出しても分からない。真心を込めた料理に気付かない。整えられた王宮の中で食されるモノには毒味役がいて・・・そんな料理を怯えながら食す人に、愛は通じないだろう。そういう人が求めるのは自分の欲望に都合の良い人材だ。

ワガハイ、昔から人材という言葉が嫌いだがね。そういう人ってぇのは「人材」なんだろう。ま、企業ってぇヤツも、時に独裁国家と同じだからなぁ。

 

アレコレいろいろアタマの中を過るのだが・・・マタイ11章も思い出される、酒匂川大口の、説明板の前でのひとときだった。ああ、荒野で叫ぶ男はカッコイイんだが、絶対に見習えないわなぁ。