静岡県駿東郡小山町須走にある「伊奈神社」についてだ。昨日の予告通りに本日はここに記録する。
ま、画像では読み辛いですな。ということで、お久しぶりだが書き起こしたので以下を読んでもらいたいのでありますな。
“御厨の父”伊奈半左衛門忠順公の治績
宝永四年十一月二十三日、富士山の大
噴火によって御厨地方は甚大な被害をう
けた。小田原藩は米一万俵を放出し救助
に務めたが、復旧困難として幕府に御厨
地方を返却した。一方、家も田畑も失っ
た被災民は他に離散する者が続出し、飢え
死する者も数多く出た。幕府もその被害
があまりにも大きいため一時は“亡所”
にすることを考えたが、ようやく再三の
嘆願をいれ、時の関東郡代伊奈半左衛門
忠順に命じて災害対策にあたらせた。伊
奈氏は代々関東郡代として治水拓殖に勝
れ、半左衛門忠順はその五代目である。
着任した半左衛門は寝食を忘れて焼砂排
除の指導にあたったが工事は困難を極め
作業は難行した。さらに、食糧の欠乏に
なやむ被災民の困窮を見かねた半左衛門
は、厳しい幕府の掟を破って駿府の幕府
御蔵米を開き餓死寸前の難民に施した。
このため半左衛門はお役御免の身となっ
た。しかし、職を賭して荒地の回復と難
民の救済に尽した半左衛門への敬慕の真
情は、その後、“御厨の父”として神に祀
り、毎年祭礼を行って今日に至っている
正徳二年二月二十九日没して既に二百
七十年、ここに郷党相はかり大恩人の銅
像を建立して、御霊を慰め感謝の誠をさ
さげるとともに、その遺徳を永く後世に
伝えるものである。
銅像の裏にはこう記されておる。
昭和五十七年三月建立
銅像建立実行委員会
制作者 日展会員 堤 達男
題字揮毫 江藤 栄
台座施工者 服部石材店
民衆を救う偉人は、だいたいひどい目にあうということか?だからこそ、このように記念されて後世に伝えられるというのだろうか?所説あるみたいだが、伊奈半左衛門忠順は切腹という話もある。その学問的な解釈を、ここで詳細に述べることが目的ではないので割愛する。
今日はかつて磔刑のためにベツレヘムに生まれた男の誕生を記念し、それを祝いながらも、その理不尽な人生に思いを馳せる日でもあろうな。救い主がいつも悲惨なことになるような世の中ではダメだねぇ。感染症対策で静かなクリスマスもまた、必要な出来事なのかもしれないな。
Happy Christmas(決してmerryではないな。だから愉快にドンチャン騒ぎをするもんじゃないわな。「人間」の幸いを祈り、新型コロナの終息を願いたいもんです。)
伊奈半左衛門忠順・・・この人もまた、救い主であったんだな。