Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

ふらふら散歩・・・「御殿場線 第一庶子踏切」界隈・・・「餅」の思い出

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御殿場線 第一庶子踏切 松田駅15:57発 国府津行 1

昨日は「御殿場線 第二庶子踏切」だったが、本日はその踏切よりも松田駅国府津駅)寄りの「第一庶子踏切」の画像である。第二があるなら第一がある・・・では第三があるのか?というと、それは分からない・・・普通はそういうコトだろうな。

住宅街の中の踏切で、幅の広い道路でも踏切でもないんだが、以外と通過するクルマもある。キチンと警報器と遮断機の付いた踏切でないと危ないワケだ。というのも、かつて歩行者専用の踏切があったのではないか?と思われる、線路を渡れそうな路地が数箇所封鎖されているように見受けられるところがあったんでね。そういう踏切っていうのは、たぶん警報器も遮断機も設けられて無かったのかもしれない。

まあ、この辺りは線路も直線なので見通しはイイんだが、遮断機が無ければ電車が見えていても、遠くならば渡ってしまうのが人情というものだ。それが日常になれば感覚はドンドン鈍化していくからな。踏切が危険な場所だというコトも忘れがちになっていくもんだ。

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御殿場線 第一庶子踏切 2

通過する電車は3両編成で、コレってナントカ系とか言うんだろうな・・・マニアじゃないから何て言うのかワカランが、この電車って乗車すると結構加速感があるんだよな。京浜急行ほどではないケドね。御殿場線の急勾配を元気に走り抜けるから、モーターもブレーキもパワフルなんだろう。

きっと高性能な車両だな。

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御殿場線 第一庶子踏切 3

12月末頃の太陽の光に比べれば、既に光は強くなってきているコトを感ずる。日照時間は延び始めている。でも太陽高度は低いから影が長~く伸びるんだなぁ・・・こういうのも季節感だろう。このような陰影は、やっぱり寒の季節ならではだ。

大寒20日・・・寒中見舞いですな(因みに立春を過ぎると「余寒見舞い」だが、余寒見舞いは出したコトがないな)。で、立春までの間っていうのはやっぱり寒さが厳しい。確か、正月を過ぎてもう一回餅つきをすることが昔はあったように記憶している。それがどの様な経緯なのかは分からないが、「寒餅(かんもち)」って言っていたなぁ・・・寒い時に搗くから雑菌が少なく、年末に搗いた餅よりもカビにくい、なんて祖母は言って有り難がっていた。

これは想像だが、年末に大量の餅を搗いてもカビてしまうし、手間も大変だから正月分を作っておき、食べきれない餅は「水餅(みずもち)」といって容器に水を入れて、その中に餅を入れて保存した。これは冷蔵庫が普及する以前の保存方法だな。この水餅は、やっぱり軟らかい餅になってしまうから、汁粉なんかで食べた。網の上で焼くにはちょっと厳しかったように思う。

正月の餅が食べ終わる頃、まだ残った餅米を使ってもう一度餅つきをする。おこわなどで餅米は使えるが、それにしても沢山残っているから餅つきをする。それに、もう少し餅を楽しみたいし、火鉢が当たり前のようにあった生活様式だったから、餅はメシを炊くよりも手軽に扱えるからな。特に学校から帰宅した子供のおやつにも、海苔餅は便利だったんだろう。

この季節、祖母の家に行くと餅と海苔と醤油を渡されて、自分で火鉢の上の網で焼いて食べなさい、って言われたもんだ。

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御殿場線 第一庶子踏切 4

ワガハイの子供の頃は、電気冷蔵庫がようやく普及し始めた頃だったのだろう。氷を使う冷蔵庫っていうのも、祖母の家にはあった。そして今の生活様式からすれば、当時の冷蔵庫は小さかったな。特に冷凍庫は小さかった・・・その小さな冷凍庫で氷を作ることが出来る、というコトが画期的だったんだろう・・・祖母はいちいち感動していた。

あの冷蔵庫は・・・「東芝」だったな。我家の冷蔵庫も「東芝」だったな。因みに今の我家の冷蔵庫は「シャープ」だけどね。

 

餅の保存も冷蔵庫がいい・・・水餅よりも冷蔵庫の方がいい、っていうコトになって、いつしか水餅はやらなくなった。そのうちパックされた餅が、スーパーマーケットで一年中売られるようになった。祖母はコレを邪道だと言ってたな。季節感がなくなっていくこと、旬が分からなくなっていくことを寂しがっていた。

我々は便利な代わりに、ナニか感動を失ったんだな。

感動を失ったっていうコトは、感情を失ったってぇコトだろう。

まあ、失った・・・っていうのは言い過ぎとしても、薄くなった、というコトだな。

コレって、記憶の共有を失う・・・とか、共有が希薄になるコトでもあるわなぁ。

(こういうワケで、教訓というのも伝承が困難になるんだな。)

でも・・・水餅には水餅の美味さがあったな。だが、水餅という保存方法に耐えられる餅は、やっぱり杵搗きのしまった餅であって、機械搗きの餅ではダレる、と祖母は言っていた。まあ、今では水餅をやらないから、そういうコトにこだわる必要も無くなったな。案外、こだわりというのも迷信のように追いやられていく運命にあるのかもしれないな。

 

さて、何故「踏切」の画像から「餅」の思い出話になったのか?というと、祖母の餅の出所は・・・この神奈川県松田町だったか、大井町だったか?の、親しい方から頂いた餅だったな。餅搗きやるとワガハイの親族一同の分も用意してくれたのだ。どういったお付き合いだったのかワカランが、ワガハイの幼少期の餅は、この地域の餅米で搗いた餅だったのだ。

ということで、御殿場線っていうと「餅」を思い出すのであった。