相当にお久し振りとなった、神奈川県小田原の街歩き。所用を終えて時間的に余裕があったので、少し散策してみた。そしていわゆる観光名所的な場所から外れたトコロを歩いた。
上画像の交差点は「大工町通り」といって、その名の通りに「大工町通り」と「国際通り」が交わる場所だ。ま、ソモソモなんで「国際通り」というのかはよ~ワカラン。全然、国際的なナニガシカがあるとは思えない。無理やりこじつければ、この通り界隈にキリスト教の教会各派の建物が点在するから?だろうか??
いや、昭和の一時は賑わいを見せた通りだったと聞く。衣料品店とか、あったような気がする。でも現在は地方都市にありがちなシャッター街となり、その幾つかは最近の古民家カフェブーム的な店舗になっていたりする、ような感じ。
「大工町通り」というのは、つまり城下町だったワケだから、大工さんなどが多かった通りというワケだ。
そういえば、ココから少し北側に移動した中町というあたりは、その昔は材木店が幾つもあったような気がする。
でもまあ、この日は大して多くを散策したのではなかった。この大工町界隈を20分程度、フラフラしただけだ。その程度の時間的余裕があったから。
天気は良かったけれど・・・ヌケのよい空が、寒さを物語っている。あまり長いコト、歩き回りたいとも思わなかった。適当なトコロで暖かいトコロに移動したくなる寒さだった。でも、北国でもないのにそ~ゆ~コトを言うとナンなんだけどねぇ。
https://maps.app.goo.gl/qt2YvKQf6TCGqBLt6
昭和のアーケードっぽいけれど、こうした屋根がいたる所に設置されていた小田原の街も、最近は撤去されて残り少なくなってきた。どうして存続しないのかは知らんが、老朽化してきたには違いない。おそらく大地震でも起これば、チトあぶない崩壊に繋がるのかもしれないし、単に景観問題なのかもしれない。
ま、ドッチでもいいけれど・・・雨の日は、やっぱり軒下って便利なんだけどねぇ。
そして画面右のシャッターが閉まった「高野書店」だが、ワガハイ、その昔、ここの本屋で古本を買ったコトもあるし、売ったコトもあるぞ!急に思い出した。ブックオフというのが無かった時代だ。
でも、ナニを買って、ナニを売ったのか?全く思い出せない。それは40年程前のコトだろう。
あ!「ユリイカ」のバックナンバーを見つけて買ったのかもしれない。
でも現在・・・「高野書店」は営業しているのかねぇ?
なんか・・・長いコト閉まったままのシャッター的雰囲気だよなぁ。(妻曰く、営業している、と言う···2025/01/11 22:00 追記)
路地の奥には「カトリック小田原教会」が見える。木造の建物で実にレトロ。イイ感じ。内部は舟形をひっくり返したような天井だったと記憶している。ナニせ内部に入ったのは高校生の頃だったから。
祭壇などの配置や基本構造は、典型的なカトリックの聖堂でございました・・・と、記憶している。幼稚園も併設されている。
小田原の街には教会が多い。一通りの会派の教会が点在している。オーソドクス(日本正教)も、このカトリック教会にほど近いトコロにある。
でもまあ・・・外観の見どころとしては、やっぱりカトリックの木造聖堂だろうなぁ。
実は当ブログでこの教会が登場するのは二度目。もっとも以下リンク先では大したコトを書いてないけれど・・・それは今回も同じか。
それで、この路地を進んで左に曲がると・・・
ま、チョット壁に亀裂が生じていたりして微妙なコンディションに見えたけれど・・・コレって東日本大震災の時の爪痕?隣(画面右手前で切れている建物)の壁は、もっと凄い亀裂が見られた。ここはもう、ソロソロ解体でも決まっているのか?といった雰囲気にも思えた。
通り奥に見える古い木造建築物はコレ↓だ。
ま、カフェだ。準備中だった。もっとも営業中でもワガハイが入店するかは微妙だ。なにせイロイロとアレルギー持ちだから、飲食店は面倒なのだ。
ゴマとリンゴにアレルギーがあると、なかなか食えるものが限られてしまうから。
この「nico cafe」は国際通りに面しているのだが、ここから大工町通り交差点方向に少し戻ってから右に路地を入ると・・・
神社があった。「笠守稲荷神社」という。ここは今のところグーグルマップでは特に記載がない。一応、以下のリンク先の位置になる。
https://maps.app.goo.gl/P6RRMTDJiwQ24jJp7
稲荷とは相性の悪いワガハイ。というコトで手を合わせるコトなくスルーする。
笠守稲荷神社縁起
当笠守稲荷神社は、元小田原寺町(現中町)
に天正八年創立の花葉山一乗院 龍雲寺と云う
寺あり、その境内に安置されてあった。伝え
る処によると、木曽義仲の夫人巴御前(栢山
善栄寺に墳墓あり)が偶々この街道を通りか
かりし時、計らずも悪者に襲われ一命に関する
折、一匹の白狐現われ身を菅笠に変じて危難
を救い無時過ぎ行く事が出来たる由、その縁
をもって人々同地に祠を造り笠守稲荷として
崇め多くの人々から敬信され年月を経て来ま
したが、その後 故あって龍雲寺が本寺である
誓願寺に合併され廃寺になっておりました処
明治十六年足柄上郡沼田西念寺の松蔭宣龍
上人の発願により現在の地に新寺建立を志し
有縁の信徒により新寺建立 寺名を改めて
華葉山、龍雲院善光寺と稱してその折、詞を寺
門に移し鎮守として護って来ました。その後
新道も開けて商店街も発展し、偶々有志の
人々と協議し町内の鎮守として永く祀らんと
現在地に移し、篤信者の援護により堂宇完成
人々の参詣後を絶たず当時近くに遊郭新開地
有り婦人等の敬信殊に厚く何時しか笠守が
変じて 瘡守と呼ばれる様になりましたが
幾星霜時代も変りましたので 其の後旧名に
改め笠守稲荷として人々の篤き信仰の表徴
として永く加護される様になりました
というコトで、商店街も発展していたし、遊郭もあったようだ。
現在、この稲荷神社の界隈は住宅街である。小田原駅から徒歩10分圏内だが、静かな住宅街である。
とまあ、ココからは駅に向かって歩き、空地となったトコロにかつてナニが建っていたかも分からなくなり、月日が流れたコトと、我が記憶が極めて曖昧だというマイドのコトを確認して家路についた。