2022年4月22日・・・「プーチン大統領はマリウポリ制圧を宣言した」というニュースがあった。 そのニュース画像ではダイニングテーブルほどの卓を挟んでプーチン(左側)とショイグ国防相(右側)が座っており、その様子はお馴染みの長~~~~い卓の両端という距離に阻まれた図・・・っていうのとは異なった構図だった。
なんでワザワザ膝つき合わせるような窮屈な状態になったのか、その理由はワカランが・・・アゾフスタリ製鉄所を封鎖せよ!という兵糧攻めと思われる指示を出すには、小さな卓が必要だったということなのだろうか?
さて、その状態っていうのは以下の画像のような状態であった。ワガハイがフォトショップ上でマウスを使って描いたので、ヘロヘロした線になっておるが、一応・・・二人の特徴は描き分けられたと思う。画像をそのまま拝借して添付するのは著作権的に如何かと思うし、かといってナニガシカの画像を残しておかないと、後々でナンのコト言ってるのか分からないコトにもなるからねぇ。
文章による描写力の欠如・・・表現力不足・・・要するに文章力の無さ・・・ってぇヤツだがねぇ。文章で的確に表現出来れば、下手クソな絵など要らないからねぇ。
この男二人が対面している状態を横から映した画面っていうのは、ワガハイ的にはど~も一枚の絵が思い出されてしまう。それはポール・セザンヌが描いた 「カード遊びをする人々」という油彩画だ。 幾つかのバージョンがある作品だが、ココでは一応1895年頃に制作されたオルセー美術館所蔵のモノを念頭としている。
この作品は、どこか17世紀の風俗画をベースにしいるような雰囲気があるなぁ・・・フェルメールの時代だ(ワガハイ的にはピーテル・デ・ホーホの方が興味深いんだが)。
セザンヌは過去の表現を踏まえた上で、独自の表現方法に置き換えたようにも見える(隠喩となっている)。17世紀の風俗画では、居酒屋で酔っ払った悪党がカード賭博をやっているみたいな居酒屋の喧噪という感じのものがあるが、セザンヌの場合は、地元プロバンスの農民をモデルとしていて、舞台設定は劇的ではなく素朴だ。
それはなんとなく、向き合っていながらもスマホに目を落とし、LINEでコミュニケーションしている現在の世の中の雰囲気にも繋がるような気がする。画面から伝わる空気は比較的静かだ。
さて、プーチンとショイグの二人が向き合う卓は、17世紀ともセザンヌの世界ともまた違って、砲弾が飛び交い、人が死んでいるという賭博どころではない物騒な前提での画像だ。「カード遊びをする人々」ではないよなぁ・・・?
そしてもう一つ気になるコトがあった。プーチンの右手が、その卓の角を支えているように見える。そんなに作りの悪い安定しない卓なのだろうか?それとも卓の角が壊れていたので隠しているのだろうか?
いや、自分の右手を支える為に卓の角を使っているのだろうか?
交渉のテーブルを握っているのは私だ!とでも暗示したいのだろうか?
「ハエ一匹通すな・・・」という言葉を聞きながら、ワガハイはプーチンの右手の置かれた状態が気になって仕方なかった。
それは・・・ロラン・バルトのいうプンクトゥムのようなコトにも思える。バルトの著作「明るい部屋」にあるように、それは「細部」・・・つまり部分的な対象である。というのは深読みし過ぎなんだろうが、プーチンの右手には、特に意味は無いのかもしれないが・・・それにしても不自然な印象が拭えないんだなぁ。
映像や写真ってぇヤツをみる時、メインの被写体に感心がいくとは限らない。ワガハイはかなりズレたコトが気になってしまう。プーチンに関してはイルクーツクだっただろうか?その会見の映像では後頭部の髪の毛が跳ねていたんだなぁ・・・そういうのが気になるんだなぁ。
「神は細部に宿る」ってぇのは建築家ミース・ファン・デル・ローエが使って知られるようになった言葉と言われるが、それはディテールに拘るというモノ作りの姿勢を示すには好都合の言葉にも思われる。
まあ、この言葉に関しては様々な解釈があり得るんだが、ワガハイ的には「福音(good news)ってぇヤツは、案外不都合なモンだ」っていう解釈と共通する点があるように思う。不自然な感じ、不都合な感じという違和感の中に・・・つまりディテール(細部)に御心が垣間見られるような気がする。
ナニせ、旧約聖書読めば「主」のミメーシスが「人間」という捉え方も出来るからなぁ・・・ま、コレって信仰的には間違いなくアウトだな。
テーブルの角を右手で掴むっていうのは、何気ないようだが・・・何らかの心理的な問題も含まれているかもしれない。祭壇の四隅(旧約聖書 出エジプト記などの記述)に関わるアレゴリーと位置付ける・・・?
まあ、妄想にも程があるか?