Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

平塚博物館の展示に「出縄酒造」の大釜を見た

昨日は平塚博物館のことを少し書いた。

etsuro1.hatenablog.com

本日はその続きとなる。

博物館の展示内容に関しては、ワガハイがアレコレ書くまでもないと思うので、昨日の頁にあるリンクから平塚博物館のサイトをご覧下され!

 

平塚市というのは、神奈川県にあるワケだが、人口25万8千人余りで相模湾に正面から接する場所に位置する。多くは平地である。相模川下流域は馬入川とも言われる)と花水川(中上流部の本流では金目川水無川)の活動によって地形が作られたと、大雑把な話ではあるが、な~んの資料も見なくても分かるようなところだ。

安土桃山時代には「中原御殿」というのを徳川家康が造営した。江戸時代は東海道の宿場町であり、平塚宿というヤツだ。大正時代には「海軍火薬廠」が出来たり、そのお陰か空襲を受けてしまい、それの為に平塚競輪が出来て・・・七夕まつりで有名で、1976(昭和51)年に博物館が出来た。

そういったトコロなのだ。

で・・・空襲に関しては以下のリンク先など参照されたし!

www.sankoseiko.co.jp

三興製鋼(株)の銃弾跡は、地域的には有名な話。そして平塚博物館の以下リンク先・・・「平塚の歴史散歩 (平塚の戦跡)」でも紹介されている。

hirahaku.jp

あと、横浜ゴム(株)の本社があるってぇのも、知られているようで知らないコトかもしれない。

www.y-yokohama.com

ワガハイの子供時分から、平塚っていったら「横浜ゴム」っていう印象があった。な~んとなく、ゴムっぽい印象のある街だったからねぇ。あと「日産車体」だな。

日産車体」は、その敷地の一部が「ららぽーと湘南平塚」になったけど。三井不動産だよ。ヤレヤレ・・・

というのが、ワガハイの平塚に関する印象である。

大釜があった

で、平塚博物館だが、展示観覧については入場無料。昭和生まれの人間にとっては典型的な博物館の展示内容と思った。だが、案外クォリティーはある。平塚の成り立ちについて網羅しながら、その理解を少し深めるか広げる為の入口的な資料(標本)も添えられている。そしてナニガシカのプロデュースが入っているような洗練度が無く、学芸員の方々の地道な手作り感のある展示内容が、これまたイイ感じなんである。

言ってみれば古き良き時代?の素朴な展示感がイイんである。昭和レトロといえば、そうかもしれない。平塚博物館は、博物館そのものがイイ感じで少しレトロなんである。

でも、出来たのが1976年なんだよなぁ。ワガハイよりも若いんだけどねぇ。

ま、要するに、ここに述べたコトは、昭和30年代生まれにとって経験した博物館の雰囲気を懐かしんでいるだけの感想かもしれないが。

大釜の説明

で・・・博物館のファサード、右寄りの軒下に展示された大釜だ。それはまあまあありがちな大釜ではあった。今となっては、こうした大釜も貴重なのかもしれない。博物館入りとなったのだな。

だが、由来が興味津々!

久々の説明板の書き起こし・・・

大釜

市内万田の造り酒屋、出縄酒造(いでなわしゅぞう)で使用されてい
た大釜(おおがま)です。湯を沸(わ)かし、上に甑(こしき)をのせ、米
を蒸(む)すのに用いられました。蒸した米に糀(こうじ)と
水を加え、桶(おけ)へ仕込んで発酵(はっこう)させ、これを絞(しぼ)っ
たものが清酒(せいしゅ)になります。釜は三州釜(さんしゅうがま)といい、
愛知県で製造されたもので、醸造(じょうぞう)用具の機械
化により使用されなくなりました。(いでなわしゅぞう)で使用されてい
た大釜(おおがま)です。湯を沸(わ)かし、上に甑(こしき)をのせ、米
を蒸(む)すのに用いられました。蒸した米に糀(こうじ)
水を加え、桶(おけ)へ仕込んで発酵(はっこう)させ、これを絞(しぼ)
たものが清酒(せいしゅ)になります。釜は三州釜(さんしゅうがま)といい、
愛知県で製造されたもので、醸造(じょうぞう)用具の機械
化により使用されなくなりました。

博物館管理の説明板だから、消えて読めなくなって分からなくなる危険性は低いと思うけれど、ここに書き写しておく(以下リンク先にも本家が載せているけれど)。まあ、読みやすくする為という目的だ。

hirahaku.jp

出縄酒造は、かつてあった酒蔵だ。いつ頃閉められたのか記憶にない。そして造られていた酒を呑んだ記憶もない。調べれば、ごく少ない情報から「旭乃瀧」という銘柄だったらしい。

まあ・・・吟醸酒ブームが起きた頃に、ブームの陰で日本酒蔵は無くなっていったから、その頃に出縄酒造も生産を終えたのかもしれない。

上の解説文からすると、出縄酒造は万田にあったという。だが平塚市内には万田という地名と出縄という地名が隣接しており、万田にあったなら何故「万田酒造」という社名にしなかったのだろうか?などと疑問がわき上がる。そもそも蔵のあった正確な場所が分からないから、これ以上は詮索しようがないけれど。

そりゃあ、酒のコトだけに税務署の古い資料には記録が残っているかもしれない。

いや、裁判所だって資料を廃棄していたりするから、税務署も古いヤツはシュレッダーゴミと化してしまったかもしれない。というワケで、廃業した事業のデータって分からなくなるもんだ。

こうして忘れ去られていくんだなぁ。

ま、とにかく博物館の一角に、かつて存在した「出縄酒造」の大釜があった。「それはかつてあった」ってぇのは写真論である。

だから、写真っていうのは博物学と成り立ちからして関係があるんだよなぁ。「映え」より重要なコトがあるんだけどねぇ?

そんなの関係ないし、知らない・・・というのが時の流れなんだろうなぁ・・・と、老人はボヤき始めるのだった。

 

明日も平塚博物館界隈のコトを書くつもり。

 

●追記(2023/10/23)

※ アンダーライン部の「海軍火薬廠」について、以下リンク先に説明あり。

www.y-yokohama.com