ブログを公開後に気付く誤字脱字がある。
ほぼ毎日ある。
同じコトバが重複していることもある。
こうしたミスは、画面上で校正をしていると必ず起こるといってもいい。紙に出力して校正するとミスは大幅に減る。それは元々が紙上で培ってきた習慣が抜けるコトがないのが一因ではあるだろう。
ブログに限らず、ど~~しても正確にやろうとすると紙から逃れられない。3Dプリンターっていうのも興味はあるんだが、そもそもCADが気に入らん!ありゃ、手書きの方が速いと思ってしまう。そりゃ、今更多くの人たちの共有する仕事が前提ならば、図面台の前に座って線を引き続けるなんてやってられないけれど、自分で完結する問題ならば方眼紙の上で定規と鉛筆と消しゴムでやった方がイイ。
立体的な造形を考えるならば、粘土やら木片を切った貼ったして作ってしまったほうが楽だ。やっぱり、そうやって学んできたから逃れられない。実に物質性から離れられない感覚なのだ。
それで、何故かここン十年間のクルマのカタチなどが気になる時があって、街中で見かける国産車や輸入車を眺めることがある。するとどのクルマの外装デザインも、データー上での設計の痕跡が多く感じられる。最終的にはクレーモデルを試作しているのかもしれないが、物質的な物を切った貼ったしている感性は薄いように思う。
形体はより、脳内イメージに近づいてきているのかもしれない。
物質を扱っていると、その物性により導かれる制約が出てくるから。そして粘土と鉄板の物性が違うというのも・・・、もっともコレは製品が鉄板のプレスなんだから、それをイメージするのだろうが。
いや・・・そんなに基礎的な造形のナニガシを考えて、クルマのデザインはされてないのかもしれない。ワガハイの言っているコトは、極めて個人的な造形表現での問題に過ぎないかもしれぬ。
だが、ど~~も、どこか設計の段階で物質的な、アナログ的なナニガシかをしているのではなかろうか?と感じてしまうのがフランス車の一部にある。紙上の論理でもないし、CADだけで出てくるとは思えない印象がある。
例えばクルマの全高・全長・全幅の直方体をイメージして、その直方体からボンネットやホイールアーチの形状などを切り出していく。そして外したものをあれこれ付けたり伸ばしたりしていると出来上がるような形態だったりする。これを粘土でやったとすると、作業の始まりの長方形に切り出された粘土は全く無駄なく綺麗に使い切ってしまう・・・そんなカタチだったりする。
なんか、とっても造形の基本のような感じがする。
彫刻的というか・・・正確には彫塑的というべきか。
ジャコメッティの彫刻が、削って削って削りまくって出来上がった形体であっても、案外、始まりの(予定された)高さは殆どかわってないんじゃね?的なコト・・・「木口の問題」なんて言い方もするけれど・・・も、思い出したりする。
クルマは実用品だから、機能的なコトが第一だけど・・・だから彫刻作品のような考え方である必要は全くないけれど・・・でもまあ、街中に溢れるものだけに、パブリックアートとしても、若干だが考えていい要素もあるかもしれない。
そのクルマが止まっているだけで、街並みの雰囲気がイイ感じになってしまう・・・とか。
ま、ある意味、フェラーリやランボルギーニが止まっていれば、そりゃ目を引くケドねぇ。そういう見栄やら威圧感やらではなく、ヤンワリとした、思わず微笑んでしまうような雰囲気のモノがあってもいい。
そりゃ、趣味性が絡むから万人受けはしないのかもしれないが。
フィアット500(オールドじゃない現行モデル)は、もう在庫限り。あのサイズであのお値段というのは・・・軽自動車の方がイイんじゃね?というのはごもっとも!だが、それでも余裕があったなら500が気になるという人は多いのでは?
ワガハイ、500を運転したコトはない。ただ展示車両の運転席に座ってみたことがあるだけだけど・・・なんか、思わずニタニタしてしまったからねぇ。
思わずニタニタしてしまうという付加価値というのも、なかなか珍しいんじゃね?
ナニ?故障率??
そりゃあ、メカニズムなんだから壊れる時は壊れるワなぁ。国産車だって壊れる時は壊れるから。
というワケで、誤字脱字は防げない。昨日のブログも修正して、それから本日のブログを書いた。
まあ、ナニガシカのAi的ナンチャラ機能を使えば、誤字脱字補正やら指摘っていうのはあるのかもしれない。ワガハイが知らないだけなのかもしれない。まったくもって最新機能を使いこなすコトが出来ない・・・というか、それを積極的に使うという好奇心も薄れつつある老人である。老け込まない為にもチャレンジした方がイイのだろうか?
いや・・・古い酒の方がイイんである!
万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。(イザヤ書25章6節 新共同訳)
モアブは幼いときから平穏に過ごして/捕囚となったことはない。古い酒のように静かに寝かされ/器から器へ注ぎかえられることなく/その風味は失われず/香りも変わることがなかった。(エレミヤ書48章11節 新共同訳)
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」(ルカによる福音書5章39節 新共同訳)
ああ、ワガハイは十分にファリサイ派だなぁ・・・それで昨日の〈先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる〉というトコロに繋がる。新しいぶどう酒には新しい革袋が必要・・・※ ってなワケだな。
ワガハイは古い革袋か?
やっぱ、後から来る者が先になるよなぁ(マタイによる福音書19章の〆)・・・若い人の邪魔にはならんようにありたい。
ま、新しい革袋の酒をダメにするようなコトはしないけど。そもそも新酒が無ければ古酒もないからねぇ。
※ 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。マタイによる福音書9章17節 新共同訳)