Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

付箋が増えてきた「日本の珈琲 奥山儀八郎 著 講談社学術文庫」

「日本の珈琲 奥山儀八郎 著 講談社学術文庫」が手元に来て、それをポツポツ読んでいる。

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前半部分はあまり面白い記述に出会わなかった。専ら前の所有者のアンダーラインや付箋のトコロを確認し、その方の脳内を覗き見ているような楽しみの方が勝っていた。もっとも、このような読み方というのは趣味的にドウなのか?と言われたら、あまりイイものではないかもしれない。

ただ、前所有者が大先生だっただけに、その方の思考と志向、そして嗜好は気になるのだ。

全然、ワガハイとは一致しない箇所に引っかかっておられたようだけど。

というコトで、ワガハイは小先生にも満たない人間という動物ではあろう。

中程に差し掛かると付箋が増えてきた

上画像、水色の付箋は前所有者のもので、他はワガハイが貼ったものだ。

結局、ワガハイも前所有者とは違っているけれど、コーヒーそのものに関しての記述が気になったワケではなかった。

というか、この本はコーヒーのクオリティに関してアレコレ記述しているワケではないので、ワガハイ的にはさして興味あるものではないのだ。

では、ナニについて付箋を貼ったのか?というと・・・

コーヒー茶碗!という記述。

これは懐かしい言い方だ。久しく耳にしない言葉だと思う。コレは祖母がよく使っていた言葉だ。祖母はコーヒーカップともティーカップとも言わなかった。コーヒー茶碗、紅茶茶碗と言っていた。

やはり、祖母は明治生まれの人だったんだなぁ。

では、母親はどうだったか?というと、昭和ひとケタ生まれとはいえ、コーヒーカップともコーヒー茶碗とも両方使っていた。紅茶茶碗についても同様だった。

あれ?ティー茶碗とは言わなかったなぁ。

 

そしてハイペースで読み進めていくと頁も171を数え、「九、海外渡航者の珈琲記事」という章に入った。その前の章では漂流者からの聞き取り調査の内容などもあったけれど・・・それもやや面白くなってきてはいたけれど。

「万延元年(西暦一八六〇)の遣米使節及びその随員らは思い思いに日記を残している・・・」という記述から、現代にも通ずる日本人の面白い共通点を見出すことが出来たような気がした。

いや、もっと正確に言うならば、今というよりも昭和から平成にかけての海外旅行をする日本人の姿の方が適切に当てはまるかもしれない。

 また日に三次マドロスにビールと云う酒を与う。是また、太鼓を打ちて、人数を集め、酒樽を船上の中程に置き、士官の者一人、各々その名を呼びあげ、五勺入の器にて一つづつ与う。食は滞船と航船と異にす。滞船中は大牛を解き、毎朝目方を改めて分ち与う。外に蒸餅、吸物の類あり、航海の時は、塩豚、干蒸餅パン、豆の湯(コーヒー)、烹(スープ)を与う。

 右のように日本人は何事によらず記録する癖があった。(p.174)

つまり、やたら写真を撮りまくる日本人が多かった時代ってあったからねぇ。成田空港到着までにフィルムを大量消費し、現地でもとにかく撮りまくっていた人は多かったよなぁ。

でもまあ・・・今では日本を訪れる外国の方々も、とても多くのシャッターを切っているようには思うけれど、それはSNSであるとか、とにかくデジカメというかスマホ時代になった点が大きいだろうから。

 

でもとにかく、使節団ともなれば記録もまた仕事の内であろう。ディテールが見えてくるので面白い。その記録の中にコーヒーという文字があれば、この本の著作者のターゲットになるというワケだけど・・・そのコーヒーという言葉のお陰で当時の一光景が垣間見られるような感じで、興味深い。

 

さて、やっぱりこの時代もまた、西洋の食習慣に合わせられない日本人は・・・

・・・但し使節には特例を設けて、ウィラードホテルでも自炊して、日本料理を作ることを許したものと見え、米国側の印刷物の銅版画に「チョンマゲの一行が、ホテルの廊下に一隅で七輪の前にしゃがみこんで料理している図」が出ていた。これは「万延元年遣米使節図録」に出ている。(p.176)

最近では知らんが、ワガハイの20代の頃は、海外旅行の案内書にはこのような一文があった・・・「インスタントの味噌汁や、醤油を持っていくことをおススメする・・・」

まあ・・・昭和の終わり頃ならば、ロンドンでもパリでもキッコーマン醤油(日本製ではなかったような気がする)は入手出来たけれどねぇ。

ワガハイは食に関しては、郷に入っては郷に従え、だったけれど(お陰でロンドンでは食えるものが少なくて困ったけれど・・・インド料理店ばかり入ってたなぁ)