上は、庭の片隅にある火鉢出身の楊貴妃メダカの楽園の図。何度も書いているが、祖父母の家にあった火鉢だ。冬になるとコレを囲んで餅を焼いた。木造平屋の8畳間と6畳間のふすまを開けて、盆暮れは親族が集まった。そういう場にあった火鉢だ。
だが、祖父母も旅立ち、その多くの遺品を管理していた叔母も亡くなり、兄弟で形見分けをした後には引き取り手のない火鉢が残った。それで孫のワガハイが貰ってきた。
まあ、子供の頃の思い出の詰まった火鉢だからねぇ・・・それが水を入れてメダカの楽園になっているのは感慨深い。というか、今度はワガハイよりも、この火鉢の脇に座り込み、じ~~~っとメダカを眺めている妻の姿を見ているのが、な~んとも感慨深い。
妻は祖父母には会うコトがなかったけれど、あの世というものがあるならば、さぞ祖父母も妻の怪しい姿を微笑みをもって眺めているだろう。
あの世とは・・・楽園でありたい。だが、それは苦悩した者にとっての楽園であっても、贅沢三昧の者には受け入れがたい楽園のようにも思う。それは福音書の記述にあった一節のコトを念頭においている。
と言いつつ、正確にはど~だったっけ?
ココでゴソゴソと該当箇所を探しにかかる・・・
マタイによる福音書19章16節以降の記述だ!欲にまみれた者ほど受け入れがたい、不都合な価値観が示されるトコロだなぁ。そして以下の引用を参照されたい。
23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイによる福音書19章 新共同訳)
要するになんか・・・中庸な価値観、というか、ニュートラルというか、そういう印象を受ける。コレって「論語」を読んでも感ずるコトだなぁ(論語での教養に関する記述など)。
でもまあ・・・物欲にまみれて世俗を生きれば、そこでの成功を追い求めている価値なのだから、そのままあらゆるものを、あの世に実現出来るはずもない。
或いは現世においても新しい世界が築かれたとしたら、今までのモノゴトが通用しない場合もある。価値観の転換が起これば、そ~ゆ~コトだってあるだろう。
人生において、今まで大切にしてきたモノが、急に全くの無用物と化す場合もあるからねぇ。
もっとも天の国が死後の世界とすれば、己の身体でさえ捨て去っていくのだから、そもそも針の穴の大きささえ関係ない・・・と、思うけど。
福音書の「金持ちの青年」は〈22 ・・・悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである〉。(だいたい青年で財産持ちってど~ゆ~ヤツだよなぁ?)
福音とは・・・グッドニュース。
とても受け入れ難い価値観に富んだ言葉が並ぶ福音書なのだが、いちいち憤慨せずにフラットな気持ちで読んでいくと、なるほど・・・言い回しは違えど、やはり「論語」と併せて読んでもいいなぁ・・・と思う。
さて、メダカの楽園は水草の勢いが旺盛だ。これはコレで涼し気。水草の緑を眺めているだけでも癒しがある。
だが、メダカの様子は見えにくい。大きなメダカは水草の下に、小さなメダカは水草と戯れ・・・といった光景が続く。こうして子供のメダカは大人のメダカから捕食されずに成長していくみたいだ。妻によると、ここから孵化して成長し続けている個体も出てきているらしい。
ワガハイの幼少期に餅を焼いていた火鉢が、小さいが壮大なスケールを持った世界になってきているコトは単純に嬉しい。
最後にマタイによる福音書19章の〆は・・・
30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(新共同訳)
これまた謎多き言葉だが、均質化・平均化されていくようなイメージを抱かせはしないだろうか?平穏な社会を実現するには、いろいろ示唆のある内容だと思うのだが。