引き続きの話しになる。
自分の能力不足、或いは他者への配慮など、さまざまな理由で踏み込むことが出来ない領域がある。それは表現にもある。表現の自由とはいえ、限度を超えれば顰蹙となる。昨今では選挙運動での言論の自由・・・的な主張をされている中には、はて?と思われるコトもあるけど。
バッハさんの演奏では、もう踏み込みたくてもそのハシゴが外されてしまっていると思う点が多い。例えば、無伴奏系の曲などの代表としてチェロ組曲の構成を見てみると・・・
ザックリと説明するが、アルマンドは舞曲、クーラント、サラバンドは3拍子の舞曲、メヌエットはフランス発祥の宮廷舞曲、ブーレはオーヴェルニュの舞曲、ガヴォットもまた舞曲、ジーグは8分の6又は8分の9拍子のイギリス、アイルランド系の舞曲だ。
それぞれ踊りが元にある。
それがど~ゆ~意味をもたらすか?
踊り手の体の動きとともにある音楽リズムだったというコトだろう。勿論、それが器楽曲となって踊り手から解放される表現はあり得る。バレエ音楽とバレエ組曲みたいに。
だって、器楽演奏の流れでバレエ・・・踊れる?
というワケで便宜上、楽譜には8分の6又は8分の9拍子で書かれているジーグなんて、古来伝来の拍子ってたぶん、もっと独特の変拍子なのかもしれない。知らんケド。
バッハさんの制作活動は、折しも時代的に沸き起こった博物学(百科事典)的なトコロもあったとか。様々な失われそうな音楽のイロイロを、自身の作品の中に取り込んでいったらしい。
というワケで、例えば正調のジーグって、どんな感じなのか?このことをFさんに質問したのだった。ソレはたぶん、マズアさんなら知っていたのだろうか?とあるルートから繋がりのあったFさんに聞いてもらいたかったのだが・・・叶わなかった。当人曰く、会った時にはイロイロ話していて聞くのを忘れたそうだ。
ま、よくある話だ。
というコトで、この件は迷宮入りとなった。別にこのコトを執拗に追いかける気もしないワガハイなので、コレで終わり。ただ、音楽の拍子(タクト)には、伝統と楽譜への記述の限界と、歌い手弾きての身体的制約の中で出来上がってきているものがあるには違いないだろう。
そして、無理をすると壊れるモノもあるというコトだ。その壊れるモノとは、伝統だったり、音楽だったり、弾きての身体の故障だったりする。それはなんか・・・かつて古武道の達人が話していたコトを思い出させる。
「空手は熊をやっつけるコトではない」
お分かりと思うが、コレはある空手流派への痛烈な批判だった。そしてその流派も、だいぶ人の身体に基いたナニかに変ってきているという噂は聞いた。
拍子(タクト)は心拍であり、それは息(ブレス)に関わる。それだけで十分、音楽のベースになるものが人の身体から出てきたコトだと分かると思う。
ま、それを突破する電子楽器類、コンピュータ音楽というのが出てきたのだけれど・・・Fさん的には「それは音楽ではない」というコトだった。
「音楽以外の別物」
だが、別にその別物を否定しはしなかった。それはソレとして、興味深い問題が提起されるだろうから。
さて、難しいコトばかり書いても飽きるので、別の角度から踏み込むことが出来ない領域について書いてみる。
この画像も、お久し振りに取り出したオリンパスEP-5での散歩で撮影した。それで綺麗な黄色に魅かれて近づきたくなるのが人情というもの。それで坂道を下って行った。
撮影に夢中になっていた。そして我に返った。
なんか・・・ニオウ?
そりゃ・・・そう、だよねぇ。
これ以上、先には踏み込めないのだった。
幸いなコトに、靴の裏にギンナンは付着していなかった。
注:続き内容なので、この頁から読まれた方はとりあえず以下リンク先も参照されると有り難い。