このところ、続き話だ。
年齢を重ねてくると、これほど一つ一つの作業に負荷を感じるとは思わなかった。それは先輩方から聞いていた話だったし、その様子も見ていたけれど、こういうコトなのかと実感が伴ってくると・・・それはアタマの中の理解ではなく現実問題だ。
やっぱりリアルだとまるで違うのは、レコードやCDで音楽を聴くのとライヴでは全く別物というのに似ている?か??
脳味噌も肉体の一部の筈だが、やっぱり筋肉や関節の抵抗や軋みを神経細胞が捉えて脳に伝えて始めて、感覚が伴うワケで・・・結局は身体感覚(末梢神経)で捉えないと会得出来ないというのが現実というコトなのだ。
ま、当たり前って言ってしまえば当たり前の話しなんだが。
明け方、夢で目覚めた。それは師匠※が繰り返した「プリミティブな問題に立ち返るしかない」という言葉に納得する夢だった。それは原点回帰でも、原理原則でもない。「プリミティブ」でなければならないのだ。
ワガハイが20代の頃、師匠に「それはルーツではいけないのか?」と問い返したコトがあった。師匠は首を横に振って「違う、プリミティブだ!」と強く言われたのだが、その時は意味するトコロが判然としなかった。
だが、流石に50を過ぎる頃にはそうだろうなぁ~的にアタマでは受け止めていた。そして、還暦を過ぎて身体のアチコチにガタが生じ、若干弱気になる時間もあったコトもあるだろう・・・そういう経験によって、よく言えばやや謙虚な視線でモノゴトを捉えるようになったかもしれない昨今の状況・・・そういう時に見た夢だった。
それはあるキリスト教会での礼拝前のシーンだった。昨今では珍しく多くの信徒が集まっていた。そして詳細は省くが、ワガハイと妻は呆れかえってしまったのだ。実に「主なる神を記念する」という本質的な問題は薄れ、属性の雑念ばかりが横行していた。
ここでは既に「本質的問題」を提起することさえ虚しいと思われた。
「帰ろう・・・」そう言って妻と二人で家に帰ろうとした。
夢としてはそういうコトだった。
でも、このように根幹が抜け落ちていくという形骸化のようなコトは、あらゆるトコロで日常茶飯事なので、ことさら驚くこともない。むしろこういうコトにいちいち問題提起するコト自体が疎まれ、無粋と捉えられるだろう。面倒ならば離れるのがいい。
聖書に立ち返るという基本姿勢に異論を挟む余地はない。だが、余りにも聖書中心に偏向してしまうと、つまり冒頭での身体感覚の話しのように、アタマデッカチになり過ぎはしないか。基本、大昔も現在も、人間という動物の身体にも感情にも大きな変化はないはずなので、言葉を祈りを通して受け止め消化していかないと・・・?と思う。
この点に、先鋭的なプロテスタントの怖さをワガハイは感じてしまう。だからといって伝統的と位置づけられる宗派も・・・ねぇ?ただ、伝統的な様式・形式のなかに保存された記憶があるので、その継承は極めて重要だと思う。
ま、これって何も宗教に限らず、伝統工芸の伝統とはナニか?というコトにも通ずると思うが。
ものの見方や考え方は、伝統に照らし合わせて組み上げられている場合、自ずと取り掛かっている仕事の位置が分かる。それは文化的な問題だ。
そしてもう一つ重要なコトがある。例えば油彩画ならば、油絵具の性質やキャンバスの性質という技材の特性に表現は支配される。その特性を無視すれば保存性が犠牲になるし、そもそも絵具が乾きにくかったりする。場合によっては変色する。
彫刻や立体作品ならば、地球の重力に逆らうコトは出来ないし、材質強度を無視すれば形体が維持できない。
陶芸は、粘土の特性を無視すれば割れたりしてしまうし、漆芸ならば漆が乾かない。
そして、それぞれの分野で、材料の特性に応じた扱い方が伝承されてきた。それは技法解説本に書かれてはいる内容だが、実際に扱うとなるとその加減は、自己流ではナカナカ把握し辛い。
ま、以上、モノづくりに関わっている人間にとっては当たり前のコトを書いた。
昨日のNHK日曜美術館は、「まなざしのヒント シュルレアリスム」だった。
マイドのコトだが、解説者は美術史家(評論家)の立場であり、今回は脳科学者の方も解説に加わっていた。
つまり・・・脳科学!だ。
そこからシュルレアリスムを解説する。それってイカニモなのだが・・・どうなんだろう?予想通りの方向性の解説が進んでいったので、途中からは聞き流していたんだが・・・ど~してシュルレアリスムという手法を用いなければならなかったのか?的な作家視点の分析は当然ながら抜け落ちてしまった。
仕方ないけれど・・・イマイチなんだよなぁ。
以下リンク先の過去記事にも関連!
※ 斎藤義重(1904ー2001)ワガハイは義重さんの晩年に、横浜市南区六ツ川の自宅で貴重なお話を聞く機会があった。その時も「プリミティブ」という言葉について念を押された。余程、伝えたかった問題なのだと思う。だが、このコトについての論評などが、知る範囲では見当たらないのが不思議だ。