ヨハン・セバスティアン・バッハさんが教会歴に合わせて作曲された礼拝音楽だ。そういうワケだから大変な量の曲がある。それを全曲演奏し終えた鈴木雅明さんとバッハ・コレギウム・ジャパンのCDの画像だ。
1995年から始めた全曲演奏と録音は、2013年2月に完結したのだが、その後半数年間の、何回かの公演を拝聴するコトが出来た。
カンタータについて、アレコレと専門的なコトを書くのは、その道の方々にお任せするとして、ワガハイ的には単なる音楽ファン並びにイエスの兄貴を慕う老人としての思いなど、チト書こうかと思う。
ま、言うまでもなく宗教音楽と言われるものだけに、それがかつてのドイツでのルター派信仰の礼拝で、どの様に位置付けられていたのか?は、ある程度の前提として学んでおくに越したコトはない。
つまり、たぶん・・・現在の礼拝の中で、このカンタータを演奏するのはチト、厳しいと思う。ワガハイ、ルター派の礼拝は知らんケド。
もっとも決定的なのは、やっぱりキリスト教信仰があるか、ないか・・・で、その音楽鑑賞はまるで違ったコトになってくるだろう。それは宗教画は言うまでもなく、ゴッホの作品を鑑賞しても、全くといってイイ程に違ってしまうのだから。
宗教っていうのは、それを信仰する者にとっては時代を超えて共有する価値観だけでなく、極めて感覚的でエモーショナルな問題なのだ。
それは、仏教でもそういうコトになる。
現在では、洋の東西に関わらず、特に先進国の宗教離れ、もしくは新しい信仰の力が増えて、伝統的な宗派がなんか元気を失ってしまったようなんだが・・・それは、たぶん伝統的な様々な風習の裏付けも失うコトに繋がるのだろう。
な~んか、祭のナニかが抜け落ちてしまった感がある時が、あるから。
ま、そういう時代の流れならば、逆らいきれるモンでもない。ワガハイも流され、漂うしかない。
もっとも、伝統的な宗教がどれだけアコギなコトをやってきたかという批判に関しては、ワガハイも同感する点は多々ある。しかし、それは所詮、人間という動物が行うコトなのだ。人が集まれば組織になり、組織を維持管理するというのは政治の世界と同じコトになる。永田町の腐敗が言われ続けるように、バチカンだって同じコトだ。
ただ、ナニに基づいているのか?の違い。神(の律法)に基づく(いや、基こうとする)か、法に基こうとするか、だ。
常識というのは、場合によっては共有できない価値観の場合もあるからねぇ・・・
ま、ナニガシカの拠り所が必要になるのが、集団で生きていく人間という動物だ。これは習性と言ってもいいだろう。そしてより、自分の都合の良い習性を提示する政治家に投票するのが民主主義みたいだ。
民主主義も完璧ではないから・・・これは極めて理想像だから・・・実現には知性(!)が試され、時には歯を食いしばって自由のために我慢もしなければならない。決して安易な方法ではないよなぁ。
だから、嫌な言葉だが「民度」が試されてしまう。
ニュースでは、世界のアチコチで国の統治に関わる事件が勃発し続けている。日本も少数与党の状態になった・・・っていうのは、決して悪いコトではないと思うけれど。ど~も芳しくないような動きに思われるニュースもあるから、ココロ暗くなるんだよなぁ。
ほんの少しの優しさがあれば・・・ウクライナのコトだって終わるだろうに。それは極めてシンプルなコトなのだ。戦争は止めれば良いのだ。核兵器は捨て去れば良いのだ。
然り、か、否、かしかない!
勿論、この件は否!を選択すれば良い。ソレだけではないか?他に複雑なコトはない。
それが昔々から出来ずに今日に至っているという伝統?は、新しい衣に着せ替えなければならないけれど・・・そんなコトは大昔にイエスの兄貴が語ったコトだ。偉大な男の言葉が実現しない以上、人間という動物は、半ば地獄に片足を突っ込んで存在するしかない、というコトなんだろう。
「みんな!御国にいきたいかぁ~~!」
なんか、大昔のテレビで、そういう番組があったような気がするけれど・・・それは「御国」ではなかったな。なんだっけ?クイズ番組だったっけ?忘れた。
(思い出した...アメリカ横断ウルトラクイズだ!)
本来、私たちは御国に居るのだ。
神が作りあげた世界ならば、そりゃ、多少の欠陥はあったとしても、もう少しマシな世界になりそうなモンなんだが・・・
ならない・・・みたいだねぇ。
神が作りあげた世界・・・一つの理想郷という価値観に過ぎない、というコトか。
だが、諦めた瞬間に御国も終わる・・・というコトか。
ミココロガ チ二モ オコナワレマスヨウ二
祈りも諦めたら終わり。理想は理想のままでも、理想を失ったら・・・その理想も終わり・・・かぁ。
(いっそ、辞書から「理想」という言葉を消してしまったら・・・ど~なるんだろうねぇ?)
っていうか、祈りもまた・・・欲望なんだけどねぇ。
平和を希求する気持ちも、これまた欲望だろう。
「愛」という一言は、深いねぇ・・・
迂闊に使えぬ「愛」。
というワケで、ワガハイが子供の頃に楽天的に思っていたコトは、たぶん実現するコトなくワガハイは旅立つのだろう。まさか、核兵器をチラつかせる男の統治する国に、精度が悪いけれど破壊力はあるという兵器を供与する国が出てくるとは・・・。
こうなってくると、やっぱり平穏な世界はあの世しかない、というコトか。
この世に疲れ切った者にこそ、イエスの膝元にひれ伏す安堵を味わえる、というコトか。
暗いコトを書いていると思われるだろうが、悔しいのだ。でもワガハイも人間という動物である以上、「人間」※を否定するコトは出来ない。僅かな可能性を見出して、それは一筋にも満たない微光だろうが、求めなければ・・・見えるモノも見えなくなってしまう、というのが、つまり信仰だろう。
残念ながら、そうした信仰を一つにしたカンタータの演奏が出来る環境ではない。ここでいう演奏とは、ミュージシャンと聴衆の両方の環境のコトだ。どうしてもナニかがナニガシカを薄めてしまっている感は否めない。それはこのCDの演奏でも窺える。
逆に、信仰ゆえに丁寧になり過ぎている演奏箇所もあったりするけれど。
もっと強く!あって欲しい。
それでも、聴けば目頭が熱くなるんである。これはもはや無条件反射といっていい。コレが信仰というコード(こういう言い方は誰かに叱られるだろうが)なんだろう。
たぶん、時を超えてバッハさんとも共有する感覚を味わっているかもしれないし、この曲を聴いた方々とも共有するだろう。それは案外、正確な共有のように思う。
そして指揮をされている鈴木雅明さんからすると、そういう奇跡が起こるコトに驚きを持って演奏されていたんじゃないだろうか?それが超長期戦となる教会カンタータ全曲演奏を支える原動力の一つになったのかもしれない。そんなコトを思いつつ、お久し振りのバッハ・コレギウム・ジャパンのCDを聴いた。
特にBWV.85 Ich bin ein guter Hirt(われは善き羊飼いなり)!
そして「Choral (soprano): Der Herr ist mein getreuer Hirt」で涙止まらず。
※ BWV.85の歌詞(対訳)は、以下のリンク先。
http://www.jade.dti.ne.jp/~jak2000/page002.html#085
演奏は”BWV.85"でYoutube上に幾つかの演奏があるので、興味のある方は探索されたし!
※「人間」というカギカッコ付の書き方は、お久し振りだ。ただの人間、という意味ではないコトは以前に書いた内容に暗示した通り。