朝からイロイロ動きまわっていたので、本日は更新が遅くなった。
師走でございます。
さあ、昨日 ↓ の続きを書こうと思う。
「ドイツ的な無骨さと粗さ・・・」といったコトを書いたんだが、それはゲルマン民族の質なのかもしれないと、昔は思っていた。だが、老いるにつれてちょっと違うかもしれないと思い始めた。
J. S. Bachさんの作られた数多くの作品の大半は(といったって、網羅するまで聴いたコトはないけれど)、徹頭徹尾音楽なのだ。
?
それはどういうコトかというと、映像的イメージが出てくるコトがあまりない。出てくるとすると幾何学的なイメージが浮かんでくる。たぶん、均整のとれた音楽なのだ。つまり欠落のない神への捧げものとしての羊のような心構えで、バッハさんは作曲しようとしていたのではないだろうか?
そういう音楽だから隙が少ない。というワケで、ワガハイは聴いていると触発されるコトは多いけれど、リラックス効果はほとんどない。神経が活性化してしまうのだ。
つまり、な~んか、こういう雰囲気がどこからやってくるのか?というと、完全なモノを求める潔癖さから生ずるコトもあるのではなかろうか?そう思ったのだ。ルターの宗教改革も、ローマ・カトリックの腐敗への反骨精神なワケだし、粛清なんである。それがああして、こ~なったのだった。
というコトは、以後、カルヴァンさんやツヴィングリは更に粛清を強めたワケだから・・・ルターさんじゃ生ぬるい!ってな感じだったんだろう。そうして神に仕える者の潔癖さをより追及する感じなワケだ。ま、あまりに大雑把な説明なのはご容赦願いたい。
そういう潔癖を求める中には、どこかストイックと裏腹にヒステリックな感性を感じてしまうワガハイなのだ。そういうニュアンスはバッハの音楽にも感じる時がある・・・(そりゃそうかもしれない、バッハさんはドイツルター派のある意味最も充実した時期のライプツィヒ・トーマス教会のカントルだったのだから、その充実したっていうのは、やっぱりそ~ゆ~時に凄いのが作られるというのは世の常。その時は異様な程の猛烈な教会音楽が出来上がったというコトだろう。)
でもなにか・・・それは人工美が過ぎて、時に気持ち悪く感じてしまう時もある。そしてそれは昨今のドイツの美術表現にも感じられる時がある。
ま、これはあくまで個人的な印象の話しでしかないけれど。
潔癖って、イイこともあるけれど、チト厳しいコトもあるからねぇ・・・
ナニゴトもホドホドというワケにはいかない人間という動物の習性もあるので、徹底的に行けるトコロまて行っちゃう・・・みたいな感じ?
で、クラッシュしてしまったりする。様々な局面でドイツの対応は素早いけれど、ワガハイからすると、やや過剰反応だったりレスポンスが良すぎてしまうと感じたりして、怖くなるコトがある。
対して日本はノロマにみえてしまうけれど。
というような質と似たようなものを、マズアさん指揮の演奏に感じているような気もしているこの頃なのだ。
でもまあ(1)・・・マズアさんが小澤征爾さんのような演奏をされても意味がないし、その逆もそういうコト。
でもまあ(2)・・・カラヤンさんの演奏にも、マズアさんと似たテーストを感じたりするな。あと、ドイツではないけれど、ブロムシュテットさんは・・・もっと厳しかぁ~~~!
たぶん、明日は上画像の本から少々と、スロー・リーディングという灘中で行われていた?授業について聞いた話など絡めて、ピアノのババアことFさんとのコトを書くだろう。
それは「見るというコト・聞くというコト」について。