上リンク先の12月7日の内容にナニか追加してみようと思う。それは「ゆるり ゆい」さんからコメントを頂いたので。別にそのコトへの返信ではないけれど、ふと思い出したコトがあったので書き留めておきたい。
今日はこのブログを書き始めた年、2020年8月3日のブログ(下リンク先)の内容にある「我が人生において最高に面白いババア」との思い出話になる予定。8月7日と併せて参照されると嬉しい。
ババアと書き続けるのもナンなので、ここからはFさんとする。東京音楽学校を卒業されているけれど、ピアノのはじまりは教会での伴奏からのようだった。大正ナン年生れだったかは忘れたが、日本が戦争に向かっていく時代に生まれ育った世代の一人だった。
そのFさんとは音楽に限らず、芸術表現全体について多くの時間を費やして雑談した。もう二度と、あんなに興味深い時間は訪れないだろうという素晴らしい時だった。それはFさんとしても同じ気持ちだったようで、ナニかというと雑用を頼んできてはワガハイを呼んだ。
ある時、クリスマスシーズンに入る頃にCDを手渡された。それがクルト・マズア指揮、ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団のベートヴェン第九だった。
Fさんは東日本大震災の前に旅立ったので・・・もう、そんなに経つのか。
そう思うと、急に再会したい気持ちになってくる。充分に話せてなかったコトもあったし、確認してもらいたいコトも残っていた(この件はまたいずれ、書けたらいいケド)。
さて、この第九の演奏で指揮をされているクルト・マズアさんは、ワガハイがいちいち説明するまでもない方なので割愛する。で、不肖悦朗、何故かマズアさんとは一度だけ至近距離でご挨拶したコトがあった。
いやぁ~~~コワモテ!ちょっとビビった。でも優しい人らしいけど、眼光は鋭かった。コチラの能力や才能、質を瞬時に見定めてしまうような怖さを感じた。ま、流石カリスマだった。
ま、思い出話はこれ位にしよう。本題に入る。
で、マズアさんの演奏というのは、ワガハイの耳には総じてやや粗い印象の演奏と感ずる。ダイナミックと言った方が良いのかもしれないけれど。だが、素材の剥きだし感覚とすればソリッドという言い方なのかもしれない。
一方、小澤征爾さんだと磨かれた印象を持つ。それはやっぱり日本人的な感性にも思える。
で、このソリッドな雰囲気が理由なのかワカランが、ドイツでは熱狂的なコンサートの盛り上がりになったという。現地で聴いたという知人によると、ちょっと付いて行けない熱狂さ、だったそうだ。
なんとなく、それはドイツ車と日本車の違いにも通ずる点があるかもしれない?
こう言ってはなんだが、ドイツ的な感覚の中には日本にはない無骨さと、粗さがあると思っている。それはドイツの適当な街中をブラつけば感ずるのではないだろうか?
そいう文化性からくる感性の差異、というコトなのかもしれない。そしてその日本人であるワガハイからして差異を感ずる感触というのが、アメリカのナニガシカにも通じていると思う。それはイギリスというよりはアメリカだ。という点は、アメリカの成り立ちを探っていくと引っかかる点はある・・・というか、ドイツ語と英語の関係性?そういう言語の問題も、なかなかに影響するのかもしれない。この辺りは勿論、専門外だから感覚的な話に過ぎないのでご了承願いたい。
とにかく、異文化のものを異文化として、ある種の違和感を感じながら享受するというのも大切、というか興味深い。だからこそ、快適ではなくても外国製の製品などをたまには使ってみるのも学びがあると思う。
音楽家、特に西欧音楽をやるとなると、その本家は日本ではないから・・・やっぱり一度は外に出て学んでみたくなるのが人情というもの。ソコでナニを身につけてくるのかは人それぞれ。音楽家でもの凄く親しい人はいないので、絵描きに関して言えば・・・大してナニかを身につけてきたとは思えん。
作品・・・ナニか変わったか?
ただ、経歴にナニガシカが加わっただけじゃね?
ま、その海外経験を血肉にするには暫くの醸成時間が必要だというのは分からんでもない。でも、ホント・・・ナニか変わった?という方が多いような気がする。
一方、なんか・・・根拠はないけれど、音楽の世界の方があるような気がする。
ま、そもそも演奏家というのはソロの場合もあるけれど、バンド活動となると異文化構成メンバーでの演奏となる機会も多い。そういう機会の多さが音楽家と美術家の違いか。
美術家・・・籠って一人で制作していたら、何処でも大して変わらん!
まだ、本題に入り切っていない。もう少し頑張って本題に近づいてみたい。
異文化の表現を読み解くコトは難しい。感覚的に享受するにも時間が必要。だが、結局はキリスト教圏ならばキリスト者は基本、通ずるものがあるから、なんとなく話が早いトコロはあったりする。
そんなワケで、たぶん今でも相手国の文化を感覚的にも享受しようとしたら・・・いや、頭での理解ではなく感覚で捉える方がより、宗教観が影響する点は否めないだろう。だから彼の国の方々が日本にやって来て、別に仏門に入る必要はないけれど、何処かで仏教的・神道的ナニかを感覚的に享受してから始まる表現、という点もあるだろう。
日常的に神仏を忘れていても、習慣として根付いて価値観に沁みついているから。
ま、分かり辛い内容になってしまった。でも、問題は分かり辛いのだ。
クルト・マズアさんの演奏が、やや粗く聴こえるという感想はワガハイのみではない。複数の方々から同意もあった。
だが、老いてきて一つ感じたのは、やはり荒ぶる神への・・・という向き合い方が、マズアさんの感性の何処かにあったのかもしれない、と思ったりするのだ。このことについてFさんと話してみたかった。
本日、少しだけ本題に入った。長くなったので稿を改めようと思う。