1. 記録というよりも観察のための撮影・・・桔梗
桔梗の花は、その形を綺麗に撮影するには上画像のアングルでは少々、正面過ぎるだろう。だが、ワガハイの興味は中心部の雄しべ雌しべ部分なのでこうなる。肉眼ではなかなか落ち着いて観察し辛いので、撮影して画像状態で観察してみる。その方がディテール、しかもその一断面については分かりやすい。
風で揺れるので、感度設定を上げて速いシャッタースピードを選ぶ。被写界深度を優先しているから絞り優先モードだけれど。これはフィルム時代から慣れている習慣だ。
ま、あまり拡大率を上げると肉眼での印象と変わるのは常。遠巻きに風に揺れる桔梗を見るっていうのが、肉眼的には好きだ。
桔梗にまつわる話を思い出しつつ、次にいく・・・
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2. 記念は写真論
昨日の当ブログは、古典的な写真論を遠回しに書いてみた。果たしてデジタル時代にどれだけ有効なのかは分からん(妻は分かると言ったが・・・)。ただ、写真のはじまりってぇのは・・・以前も書いたけれど、次の言葉に関わる。
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。(ルカによる福音書22章19節 新共同訳)
ミサ(聖餐式)の核心部分でもあり、キリスト教が祈りを継続する理由だ。まあ・・・下の一コリの個所の方が、より式文には近いけれど。
感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(コリントの信徒への手紙一 11章24節 新共同訳)
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(コリントの信徒への手紙一 11章25節 新共同訳)
わたしの記念としてこのように行いなさい。
記念とは何か?そこまで述べる必要はないだろう。だが、この問題が挿げ替えられていく見込みを、神学校にいた経歴のあるニセフォール・ニエプスならば察していただろう。
そうして・・・近代は写真・映像によって、あらゆる問題を記録していった。
記念が記録にかわっていった時代。
このことは以前も書いたが、ゴルゴタの丘に現在のような報道が入って中継をしていたなら、キリスト教という宗教は生じなかったかもしれない。
というワケで、ワガハイは不思議に思うことがある。聖職者でカメラ好きっていうのは、ど~なんだろうねぇ?
ま、ソレハそれ、なんだろうけど。
ある種の呪いの封印にもなる記念、記録だから。
銀塩写真(アナログ写真)だってネガ修正もしたし、プリント上に面相筆でポツポツと点打ちでレタッチだってやった。覆い焼や焼き込み、はたまた漂白までもして画面を作りはした。
だが、デジタルではアプリによって簡便に修正が可能になった。その結果、友人や家族、自分のそのままの影を記録したデータが乏しくなった。お陰で、昨日述べたこととは違った問題が生じているという。
数年前の自分の姿を確認しようとすると、運転免許証や履歴書用の写真しかない・・・ということ。
そして急速に進むAi。
ナニを写真・photographとするのか?
判別不能とも言われる合成画像に関して・・・それは画像ではある、にしても、写真ではない・・・フォトのグラフでもないだろう。そのあたりは、幾らナンでもハッキリとしてきたのではないだろうか?
現実は・・・専門家の方たちでも混乱しているように思うけれど。彼らは相変わらず、ヴァルター・ベンヤミンの再来を待ち望んでいるだけに見えるんだが?
併せてココも考えておきたい・・・影のコトをあれこれ書いているが、興味深い例えだと思う。
わたしの影がわたしを呼ぶのか? わたしの影などどうでもいい! ついてくるならくるがいい! わたしはー逃げてやる。(ツァラトゥストラはこう言った 下 ニーチェ著 氷上英廣訳 p.227 岩波文庫)
うどんこ病で絶えたと思われたプランター植えのナスタチウム(以下リンク先)だが、土捨て場に種が飛んだのだろう。それを鉢に植えなおした。
うまく育てていけば、またナスタチウムを盛大に茂らすことが出来る。一粒の種からでも、可能性は広がる。