昨日のブログは、新約聖書の一節を思い出しながら書いていた。だが、その一節が不確かだっだので該当箇所を見つけるコトが出来なかった。どうも最近、脳細胞の老化が進んでいると実感出来る場面が増えてきたような感じだ。
だが夕べ、湯船に浸かっていたら突然、正確にその一節を思い出した。その”章”までも!
弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。(ヨハネによる福音書 2章17節 新共同訳)
ま、ナンでも熱意があればイイってもんじない。人の為に良かれと思ってやってもありがた迷惑なコトはあるし、組織の温存を大切に考えていたら大切なモノやコトを失った・・・なんてコトは古今東西ありふれた教訓ではないか。
伝統的な宗教っていうのは、イイことも悪いことも温存・記憶している。例えばクレルボーの聖ベルナールの過ちも、宗教的な価値観と照らし合わせるコトで心情も察する。それらは時に有益な教訓となる。勿論、同じ過ちを繰り返す場合も多々ある。
で・・・
己の信仰心を大切にするあまり、本体を見失ってしまっている・・・というのは最近のMax出来事としてはロシアのキリルⅠ世・・・とワガハイ的には感じている。
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。(マタイによる福音書 24章 6節 新共同訳)
〈戦争は起こるに決まっている・・・〉っていうのは、別に戦争を肯定・推奨しているワケじゃないからねぇ。ではナニを備えとするのか・・・軍備だろうか?
報道を見て思うんだが、ロシアの将来を思って、その熱意でロシアをダメにする・・・ってな構図になっているんじゃない?組織の維持存続を願うがあまり、その熱意が組織をダメにするというコトだってある。国家だろうが会社だろうが、宗教だろうが・・・イエスさんやマリアさんを大切に思い過ぎて、妙なトコロにいってしまう司祭ってぇのもあるケド・・・
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカによる福音書/ 22章 19節 新共同訳)
伝統的なキリスト教ならば、毎週のミサ、聖餐式を行う根拠は「わたしの記念としてこのように行いなさい」の一言だろう。それ以外のコトは派生的な問題だ。聖堂という建築物も、それは記念物ではあるものの、最も重要ではないからねぇ。「このように行う・・・」という行為の中に身体性が内包されているからなぁ。
昔は映像記録が出来なかったので、こうして伝承の中に忘れないように記念した。だから最近の宗教って、一体ナニを記念しているのだろうか?(たぶん「記念」の問題ではないのだろうな。)
ゴルゴタの丘の一件だって現在のような機材があれば・・・テレビカメラは言うに及ばず、スマホ片手で撮影する多くの人だかりの中での磔刑になったかもしれない。
「今、私達は世界の終わりに立ち会っているというのか!/オオ~っとォ!ポンテオピラト、そういうコト言うのかぁ!」って、古舘伊知郎さんの実況中継などが入っていたとしたら・・・キリスト教は成立しなかっただろうなぁ(お釈迦様だってどうなったか?)※。そうして現代は様々な物事を封印するコトが出来るようになってきた。
個人的な証言よりも証拠映像!監視カメラだらけの街中と、クルマにはドラレコが必須だからねぇ。電話の会話はサービスの向上の為?に記録されるしねぇ。
でも相変わらず、証拠は捏造されるケドね。画像合成もドンドン進化しているし。
ま、エビデンスがなければ言いようがなかった学者の立場・・・コロナ禍で露呈された説得力のイマイチな面。科学はまだまだ宗教を神秘主義として追いやるには力不足ということか?
しかし・・・秋明菊は見事に道路側に向いて咲いていて、庭からは裏側しか見えない。花期は極めて長い花だけに、ず~っとソッポ向かれている感じだ。ま、秋明菊はワガハイの為に咲いているワケでもなく、ワガハイも秋明菊を見る為にココに立っているワケでもないからねぇ。
※ 一遍上人の片瀬浜での踊り念仏がライブ中継されたとしたら、鎌倉幕府の在り方だって相当に変わってしまっただろうからなぁ。