ホトトギスの花が真っ盛りなので、庭に出れば撮影する。概ね似たようなカットばかりが量産されてしまいがちだが、時折変化球も出てくる。そういう期待もあって、かわり映えのしない画像が増えていく。
定点で街角を撮影し続けていても、時に小さなハプニングが起こって面白い画像が得られる場合もある。その小さなハプニングは、カラスが画面の丁度良いバランスの所に入って来たり、通りがかりの人が立ったりといったコトもあるし、雨の降り始めとか、雲の切れ間から強い光が照らしたりといった気象現象のコトもある。雪が降り積もれば急に撮影する人も出てくるだろうし・・・コレは雪の少ない地域の人限定の話だろうが。
コンセプチュアルなアートとか写真の作品には・・・まあ、団塊の世代と言われるあたりの作家が多いかな?定点撮影を方法に用いたモノが見られた。あの頃だと現在のように簡単にタイムラプスとか出来なかったからねぇ。自動でやろうとすると装置は大がかりになるし、ソレが出来ないならカメラにず~~っとはり付いて撮影ってなワケだ。
ワガハイも若かった頃、お手伝いでカメラ番をしたコトがあった。時計見ながら時々シャッターを切る。トイレ休憩とか食事の交代要員も居たりしてねぇ。
三脚にカメラを固定し、露出設定も固定して、これでもか!ってな定点撮影をやっておられる方も居た。カメラは絶対に動かさない!っていうんだな。コレもまた方法論ではある。カメラを動かしたらつまらなくなる・・・って言うのだ。しかも、その手法をビデオカメラでやったりフィルム回したりしてねぇ・・・実験映画とか言われていたヤツだな。
まあ、概ね退屈を通り越して拷問に近い映像がスクリーンに上映される作品だったりしてねぇ。20分間、壁に相対して座禅している方が楽なもんだ。すると、映画1本分の長時間露光で映画館?を撮影した人もいて話題になったなぁ。それは空虚なようでいて空虚ではない・・・時間が写っている、とか言って・・・そりゃ、時間のコントロールがカメラ使いの逃れられない問題ではあるが。
一回見れば、イイかな・・・再読するまでもない小説が多いように。
そりゃ、言えた義理ではないケドねぇ・・・でも、このブログであったナントカ、ってぇ酒はナンだったっけ?ってな話しならば、再読もされるケースはあるかもしれない。
やっぱり、実用を伴わないとナカナカ・・・ねぇ。それが社会性ってな話しだねぇ。
ところでブレた画像って、失敗なの?
ナニが成功で失敗なの?
それは目的次第だよねぇ。
ソモソモ成功だの失敗だのって・・・ナンなんだろうねぇ?
自宅庭でホトトギスを何度も撮影するっていうのも、広義に解釈すれば定点撮影(観測・観察・鑑賞)と言えなくもない。こういうのをコンセプトとするならば、ブレ画像にもまた、表現の必然性が見いだせるコトもあるだろう。ソレを見る人が面白いと思うかどうかは人それぞれだが。
表現には、人を癒す力ばかりが宿るワケではないからねぇ・・・
鳥取県が3億円で購入したアンディ・ウォーホルの「ブリロの箱」だが、ありがちな批判に晒されているなぁ。作品購入責任者の話では、「ポップアートというのは比較的親しみやすい・・・鳥取県には漫画関係のカルチャーもある・・・」という。コレまたありがちな論法だ(こりゃ、頑なな民・・・ってぇヤツだな)。
ワガハイ・・・「ウォーホルの術中にはまっている(作品購入責任者の話)」のは、実は県民の皆さんではなく、日本の美術関係者のようにも思えるんだけどねぇ。
ポップアート・・・所詮、その土壌を共有出来ないからなぁ。
ウォーホル作品3億円で購入「10年20年のスパンで見てほしい」 | NHK政治マガジン
※ タイトルの「箱の定点観察」っていうのは、その「箱」はカメラも美術館も箱だからねぇ。