ここは東京都羽村市の、JR青梅線「羽村」駅にほぼ隣接するような場所にある「まいまいず井戸」。一等地とも言える駅前立地!そして東京都指定史跡。
例によって夕方に立ち寄っているので撮影条件は芳しくない。ココを目的に行っているワケではなく、ついでだから。感度ISO3200で撮っているから・・・暗いのだ。使用レンズはオリンパスの「M.ZUIKO DIGITAL 7-14mm 1:2.8」と超広角。
引きがないので7mm側しか使ってない。このレンズはとても便利。だが重い。そして超広角レンズにありがちな出目金レンズなので、撮影したらすぐにキャップを閉めて前玉をぶつけたりしないように神経を使う。
一番下の井戸のトコロまで下って行って、金網越しに井戸を覗き込んだ。だが暗くて分からない。ワガハイはせっかちだからサッサと切り上げたが、妻はしつこく覗き込んで目が暗順応したらしく「水らしきものがあるねぇ」なんて言っていた。
こういう井戸が作られるということは、地下水位が低いのだろう。羽村は台地の上ってコトなんだな。詳細を調べなくてもそ~ゆ~コトなんだろう。だが、この細い坂道を降りて水を汲み、今度は重たい桶を担いでこの坂道を上ったのだから・・・大変だったんだなぁ。
でもまあ、水が汲めるだけマシか。ホントに水が無い地域ってぇのはあったワケだし、世界的にはいまだに水問題が解決されていない地域も多い。それを思えば、鎌倉時代からあったとされるこの井戸の恩恵は計り知れないことなのだろう。
だが、どんな水だったのか?現在は使われていないよなぁ。使われていないと水質は厳しいと思うが・・・この井戸水で緑茶など淹れてみたらどの様な感じなんだろう?現在でもつかわれている井戸がこの界隈にあれば、ソレでいいんじゃね?って思うかもしれないが、水脈って少しズレると水質がガラリと違ってしまったりするから。
今となっては、分からず仕舞いというコトか。井戸の造りも面白いが、往年の水質のコトが気になるワガハイであった。
まあ・・・なんかワガハイ達が下りて行ったら、斜面の草の中でガサガサという音がしたので、な~んか小動物がいたんだろう。ソコソコ気温が下がってきていたから蛇のような変温動物ではないかもしれない。ネズミだろうか?
このような井戸は、武蔵野台地には多く見られたらしい。そして現存する井戸も幾つかあるという。だが、もっとも簡便に見学出来るのがここ、羽村駅前の「五ノ神まいまいず井戸」なのだそうだ。そのように以前聞いたコトがあった。
東京都指定史跡
まいまいず井戸
所在地 羽村市五ノ神一丁目一番地
指 定 昭和二十七年十一月三日 旧跡
昭和三十六年十月三日 種別変更
まいまいずとは、かたつむりのことで、井戸に向かっ
て降りる通路の形がこれに似ているために名づけられたも
のである。この井戸は地元伝説では大同年間(八〇六~八
一〇)に創始されたものとしているが典拠はない。形態お
よび板碑などの出土からみて、鎌倉時代の創建と推定さ
れる。さく井技術の未発達の時代に筒状井戸の掘りにく
い砂礫層(されきそう)地帯に井戸を設ける必要から、このような形態
をとるにいたったものである。おそらく、隣接の熊野神
社(現在・五ノ神社)とともに村落の中心になって継続
して使用されてきたものと思われる。
元文六年(一七四一)に、当時の五ノ神村の孫中の協
力で井戸普請が行われた記録があり、その後も数回修復
されてきたが、昭和三十五年町営水道開設に伴い使用を
停止した。
地表面での直径約一六メートル、底面の直径約五メー
トル、深さ約四・三メートル、スリバチ状の窪地の中央
に直径約一・ニメートル、深さ五・九メートルの堀り井戸
がある。地表面からは周壁を約二周して井戸に達するよ
うになっている。
平成八年三月八日 建設
東京都教育委員会
文化財を大切にしましょう
というコトだ。
〈昭和三十五年町営水道開設に伴い使用を停止した〉という記述に、つまり昭和35年は1960年だから・・・なんだ、だいたいワガハイが生まれた頃に使用を停止した、ってぇコトか。というコトで、妙な親近感が急に生まれるのだった。
さて、説明板の書き写しという作業は、単純な作業でかったるい。だが、特に次のヤツは面倒だった。で、現場でコレを全て読むというのはかなり苦痛だとワガハイ的には思うのだが、平気な人もおられるんだろうなぁ。
書き写したモノを読むのも、結構カッタルイとは思うケド・・・
都指定史跡
まいまいず井戸
一、新編武蔵風土記稿(江戸時代後期文化・文政の頃編さん)には、
「螺井[まいまいず]、社地の内にあり、名儀詳[つまびらか]ならず、井の上に凹なる処広さ十歩四方もあり、
これより下れることわずかにして、水を汲むべし。凡長[おおよそながさ]五尋[ひろ](約八・五メートル)許[ばかり]の
縄を用[もち]ゆ、井中二丈許[ばかり](約一メートル)以下は大石を以囲[もってかこむ]む近頃[ちかごろ]作りし井戸に
あらず。真[まこと]に古様[こよう]なり」と書かれています。
二、江戸時代元文六𭘾(一七四一)に、この井戸の改修工事が行われ、その時の
様子を書いた文書が現在残っています。(桜沢虎男氏蔵)普請帳(表)
元文六𭘾 名主平重郎
熊野[くまの]井戸普請二月三日より十七日成就[じょうじゅ]
辛[かのと]ノ酉[とり] 同 喜兵衛
井戸普請家壱間(軒)ニ付三百五拾文宛、貮拾四間(軒)支出総〆[そうしめ]八貫
四百文也。井戸掘リ禮金壱両貮分、残リ三貫六百文、小遣諸用人足
六百五人也。名主平重郎、同喜兵衛、組頭庄右衛門、百姓代五郎右衛門
世話役九郎右衛門、其の他全村百姓二十名(以下略)
川崎村井戸堀リ、加右衛門、同村佐右衛門
元文六𭘾辛酉二月三日ニ初同月十七日出来申候ほり直シ普請帳(裏)
辛[かのと]
ノ 双村中罷出井戸成就致候
酉[とり]
この文書の余白に板碑(仏を供養する目的をもった卒塔婆[そとうば]の一種)が
二十四、五基でてきたことが書かれていて、年号とこの普請の時から何𭘾
前のものかが九基だけ書かれていました。
建永[けんえい] 五百三十七𭘾 貞二[ていじ] 三百八十三𭘾
正和[しょうわ] 四百三十三𭘾 応永[おうえい] 三百五十八𭘾
康永[こうえい] 四百三𭘾 正長[しょうちょう] 三百十七𭘾
延久[えんきゅう] 四百十七𭘾 明徳[みょうとく] 三百五十六𭘾
正慶[しょうけい] 四百十三𭘾
この板碑の𭘾号から、まいまいず井戸を中心とした集落が鎌倉時代から
あったことがわかります。熊野井戸とは、隣接する五ノ神社を以前 熊
野社と言っていたことから、まいまいず井戸の別名として言われていました。
三、この井戸の復元、補修工事は、昭和三十七𭘾十二月一日より昭和三十
八𭘾三月、昭和五十三𭘾三月一日より三月末日までの二回実施し、
現在のまいまいず井戸は、元文六年の普請の時の姿に復元されており
ます。
昭和五十四𭘾六月 日 羽村町教育委員会
まいまいず井戸保存会
注:[ ]内はルビ、年という漢字に𭘾が使われていたので尊重した。だが・・・その年という字が環境によっては表示されないみたいだ。ワガハイのスマホではアウト!でもPCだとOK!というコトで、文字化けとか□に×が組み合わさったヤツが表示される場合は、それ「年」という字(の俗字)ですぅ~~~。
次回は五ノ神社について、の予定。