4日かけて神奈川県山北町の「D52 70」を切っ掛けに戯言を書いた。撮影は御殿場に行くついでに立ち寄ったので、光線条件は良くない。夕方だからねぇ。デフォルトだとシャドーが潰れてナニがど~なっているのか分からなくなるので、フォトショップで少々階調を調整してある。
ここの蒸気機関車は、しっかりとした屋根に覆われていて、動態保存だけに各部に注油もされている。だから近寄ると油臭い。
思えば子供の頃は路線バスも、自家用車も、このような油の臭いが漂っていた。母が使っていた足踏みミシンも油臭かった。
最近のメカニズムはベアリングが良くなったのか、グリースの性能が良くなったのか、そもそも回転部分の潤滑が変わったのか知らんが、こんなに油臭い機械っていうのも見かけない。
だから、こうした油の臭いを久ぶりに嗅いだコトで、いろいろ昔のコトを思い出してしまった。
我家にも用途に応じて、何種類かの機械油を常備していたなぁ。
その中でもサラサラでクリアーだった油は、いわゆるスピンドル油の範疇に入るモノだろう。ナニに使っていたかというと、テープレコーダーの回転部分に注油するモノだった。その油のパッケージには「SONY」のロゴが印刷されていた。
そのSONY油がオイルストーンに用いるのに丁度良くて、コレで随分彫刻刀を研いだ。ソニータイマーなんていう言い方もあったケド、そのテープレコーダーも大して長持ちはしなかったから、油だけ残ってしまったのだ。
やっぱりオープンテープデッキは、TEAC製のヤツの方がヨカッタような気がした。ま、その時の親しい電気屋さんがソニー特約店だったから、そういう流れでSONY製品が多い家だったから。
現在、我が家の中を見渡すと・・・これといってSONY製品が見当たらない。たぶん、ソロソロ50年選手になろうとしているラジオ位だ。
ワガハイが子供の頃、昭和40年代だが、山北駅前は現在よりも賑やかだったように思う。そして国鉄関係者が多く住んでいた。山北機関区だからね。御殿場線が電化されても、その名残のように国鉄職員や、その退職者が多かったはずだ。そうした方々は戦前から線路に関わってこられたので、筋金入りの鉄道員だった。
鉄路を守れ!
こういう言葉を、子供の頃はよく聞いた。今思うとまるで軍隊のようだ。鉄道の定時運行について使命感が猛烈に強かった。暑い夏も、嵐でも、降雪の最中でもレールを守るために殉職も辞さない、といった雰囲気だった。
戦争に向かっていく流れの中、特攻隊のごとく、鉄道員も物流の基幹を守るために命がけだったのだろう。そうした時代の空気の中で設計されて製造されたD52というコトだ。
なんか、戦中生まれの戦後高度経済成長の助走部を受け持った蒸気機関車というコトで、ワガハイの伯父・叔父たちはD52への思い入れが強かった。別に国鉄マンではなかったけれど。そしてこう言うんである・・・
「無駄の無い意匠はゼロ戦とD52・・・」
自分たちの生き方になぞらえ、ゼロ戦を戦死した仲間にダブらせ、生き残りの自分たちをD52等の機関車にダブらせ、馬車馬のように働く・・・というよりも機関車のように働くのが、格好いい男!なんて言っていた。
粗食で汗水垂らして働き、職場で倒れるのが男!みたいな、結局はお国の為に命を投げ出すという教育を受けてきた人たちだから・・・「自由」というのはナニか?実のところ自覚出来なかったようにも思う。
「自由とはデタラメだ!」
と、我が父親は言っていたから。
いろいろと複雑な思いが沸き上がるD52だ。それだけに、味わい深いモニュメントだと思った。
山北町のふるさと納税では、〈寄附をしていただいた方の思いを反映するため、希望する事業を指定していただいています〉という項目に「SLD52関係 D52の維持管理 D52の運行等」というのがある。
返礼品には、川西屋酒造店の「丹沢山・隆」もあるからねぇ。