Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

20章自体が「写真論」なんだからねぇ

「神奈川県知事選」の結果は、予想するまでもなく現職の当選となった。

というコトは、ワガハイは現職には投票していないというワケだ。その理由は以下リンク先に書いた通りで、今までに票を入れて当選した人は一人もいないからねぇ。

etsuro1.hatenablog.com

なんて言うか・・・現職は四期目に突入というコトになるのかな?あまり長期になっても驕りが目立つというのが世の常だ。そういう感触も既にあったし・・・さて、どうなるコトやら?

人生、引き際が肝心と言われるように、綺麗に仕舞いにするのも生き方だが、徹底的にドロドロに行くのも生き方だから。

まあ、プーチ〇とかトラ◇プとかいう方々のように、執拗にごり押ししていくのも人生だ。多様性は認めるべきだろうか?もっとも彼の国には多様性を尊重する姿勢があるのかどうか、は・・・言うまでもないか。

「高圧的な政治」≠「強い政治」

 

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ナニにつけても見誤る人間という動物の習性について、やっぱり大昔だからこそ見抜いていたと思われるのが・・・昨日のイースターでの聖書該当箇所「ヨハネによる福音書 20章1~18節」にも感じる。

自分の都合という思いによって見誤る(わたしたちは、思いと、言葉と、行いによって多くの罪を犯していることを懺悔します・・・※1)「見る」っていうのは先入観との闘いでもあるから。

 

以下リンク先は、お会いしたことのない司祭のブログだが、昨日の説教内容だろう。ワガハイも注目し続けている問題について書かれていた。興味のある方は、前半1~10節については以下リンク先を参照下され。ワガハイも気になって昔、調べてナルヘソ!と思ったコトだ。

markoji2.hatenablog.com

聖書記述から肝心なトコロだけ以下に抜き取る。

こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。ヨハネによる福音書 20章14節 新共同訳)

エスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。ヨハネによる福音書 20章16節 新共同訳)

この二度の「振り向き」について、表面的に読んでしまえば180°振り返って、再び180°振り返れば・・・また同じトコロを向いている!

はは~~ん!人間、かわらないよねぇ~~~。昔から「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ってなモンで、選挙という審判の時にだけ謙虚になり、当選が決まれば翌日には今までの業務の延長のなかで、そ~ゆ~流れになりやすいもんだ。

そ~なってほしくはないけれど、恐れるコトは起こるもんであるから・・・さあ、お手並み拝見である。

 

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さて、選挙の件はもういいや。

 

一発目の振り返りでは、死んじまったイエスさんという先入観にとらわれ、かつ悲しみに満たされてしまって己の内面しか見ていないような心理状態だろうから。「それがイエスだとはわからなかった」っていうのは至極まともな反応であって、な~んの問題もないだろう。

だが、二発目の振り返りは「見えた」とは書かれていないが、それは逆説的な意味であって「見ている」よねぇ。「見る」ってぇのは、そ~ゆ~コトだよなぁ。

先入観ってのは脳内のコトであって、網膜に上下左右が反転して投影されている映像を感受できていない脳味噌状態だから。

前半の1~10節で「見る」ことをフリまくっておいて、後半の11~18節で「振り返る」ってぇのも、やりすぎな程に気付きを要求してくる。

「部分だけ読んでるんじゃね~~よぉ⤴」

ってな声も聞こえてきそうだ。

 

やっぱり復活っていうのは、洞察の要求度の高い場面だねぇ。それだけにアタマ使いまくるから、イロイロ気付きが得られるという贈り物付きである。

しかし、死んでいるのに幸いがあり、不思議な明るさがあるっていう、何度読み返しても変な話だよな。

庭のブルーベリー(昨日の状態)

で、やっと本日の本題に到達。

ヨハネによる福音書 20章」を抜きにして「写真論」は理解不能である。それは日本の事情では困難かも知らんが、スーザン・ソンタグの「写真論」※2にしても、ロラン・バルトの「明るい部屋」※3にしても、果てはヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」※4までも、この20章がなければ書かれなかっただろう、というワケだ。

そもそも20章自体が「写真論」なんだから。

特に始末に負えないのが「明るい部屋」だ。美文につられて読み切ってしまったとしても、「24 前言取り消し p.72」以降の読解は、20章が読み手に入ってないと肝心なトコロは誤解か曲解か、はたまた意味不明な神秘のベールに包まれてしまうだろう。

そうしてフィルタリングされてしまう。

と、ここまで書いて、改めて「明るい部屋」のp.102からを読み直してみた。それはまさしく「驚き」の通りである。そして「38 平板な死 p.114」から少しだけ引用しておこう。

もろもろの儀式の衰退と軌を一にして出現した「写真」は、おそらく、宗教を離れ儀式を離れた非象徴的な「死」が、われわれの現代社会に侵入してきたことに呼応するものであろう。

そして、はじめて映像を物質に置き換えて定着することに成功したとされる、フランスのニセフォール・ニエプスさんは、聖職の道からの転向者であったコトも・・・それが当時の状況下でどの様なコトであったか、も邪推すると興味深い。

英仏海峡の向こう側では、産業革命がガチで進んでいたのだ。

 

※1 聖餐式文より

※2 「写真論」スーザン・ソンタグ 近藤耕人 訳 晶文社

※3 「明るい部屋」ロラン・バルト 花輪 光 みすず書房

※4 「複製技術時代の芸術」ヴァルター・ベンヤミン 編集解説 佐々木基一 晶文社

以上3冊は、かつて写真や映像を学ぶ者が読んでおくべき書と言われた。今はど~なのかは知らん。これらを既に古典と言って軽視している方もおられるが、現実を撮るという行為が伴うならば、デジタルになろうと以下引用のごとく逃れることは多分出来ないのだ。

はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。(マタイによる福音書 5章18節 新共同訳)

種類が違うと花の色も違うブルーベリー(昨日の状態)

 

以上、ボケが酷くならないうちに、肝心なトコロのサワリだけの忘備録。「コレがソレ!」と突きつけるのが一枚の写真だから、自分の姿にショボくれるのもまた福音なり。もう少しマシだと思っていた先入観は、毎度ながら叩き壊されるというワケだ。

ヤレヤレ・・・。