昨日の補足から始めようと思う。
スーザン・ソンタグの「写真論」って、ナニかと論じられ、註解され、引用されたりする。だが、この本を語るにしても読解するにしても、フォイエルバッハを避けて通るコトが出来ない。そして無神論とはいうものの、無神論者にもいろいろなスタンスがあるので一括りにしてしまうのも違うねぇ。
ソンタグはユダヤ系、フォイエルバッハはど~だったっけ?まあ、若い頃の著述にキリスト教批判とされる箇所があって失職したんだっけ?いずれにせよ、キリスト教という宗教・宗派については信仰が無かったり、不信感を抱いたりしていた・・・ってな感じかなぁ?だが、イエス・キリストを批判しているワケではないトコロは共通している。
とにかく、フォイエルバッハを読解するにはキリスト教聖書と神学の知識が要求されてしまう。例え信徒だとしても、盲信ならば踏み込めない領域となる。そりゃあ、無神論を理解するには有神論とセットだからねぇ。論駁対象への冷静な理解が無ければ無理だ。
という、案外困難な前提があった上で、ソンタグさんの著述を読んでいくと・・・泣けるよねぇ。なかなかエモーショナルな内容なのよ!
そしてそれ以上に強烈なのがロラン・バルト「明るい部屋」である。ワガハイ、コレを何度読み返したか。ハッキリ言って阿保だねぇ・・・10回では済まないだろう。バルトもまた、この本の中でこう記述している。
「写真」はつねに私を驚かす。その驚きはいつまでも続き、新たにされ、尽きることを知らない。その驚き、その執拗さは、おそらく、私という人間を形成している宗教的実質に深く根ざしているのであろう。これはいかんともなしがたいことであるが、「写真」は何か復活と関係があるのだ。(明るい部屋 35「驚き」p.102 l.4 ロラン・バルト 花輪 光 みすず書房)
昨日の当ブログで、〈ここまで書いて、改めて「明るい部屋」のp.102からを読み直してみた。それはまさしく「驚き」の通りである〉と書いたが、その「驚き」とは上引用先のコトである。
そして「何か復活と関係がある・・・」と言われるのは、要するに「ヨハネによる福音書20章」が該当箇所だ。そしてこの20章で書かれているコトはカメラの構造のようではないか。だから映像とはナニか?の示唆に富む話なんである。
小さな穴を通過した光が、反対側の壁に天地左右がひっくり返った像を結ぶという現象自体は、とんでもなく古くから知られていたワケだから。ただ、そのボ~っとした画像を不思議と思いながらも、利用するまでには長い時間が必要だっただけだ。
そして、話が脱線するようだが・・・山中信夫さんのピンホール作品について、それがナニを示唆するか・・・なんて、困ったことに不思議な解釈、若しくは解釈不能に陥ってしまっている。何でマチュピチュまで行って撮ったのか?さえ分からないみたい。
そもそも、分かる、分からないではなくエモーショナルな問題ではあるが。
ピンホールカメラを制作に用いるコトについては、その動機もまた人それぞれではある。原始的な原理、という人もいる。ボケ味が好きだという人もいる。
だが、ピンホールカメラ・・・出来れば少し大き目なカメラを作って撮影してみると気づく方もおられるかもしれない・・・なんだ?コレってまるでヨハネの20章じゃないか!
昨日とあわせて、忘れられつつある「写真」に関する昔話だった。ワガハイがこのコトについて大雑把な話を聞いたのは高校生の頃・・・ある写真館のオヤジさんからだった。その写真館は、今はもうない。