Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

紅葉のブルーベリーから思い出される・・・「用の美」のコトとか

ブルーベリーの紅葉

今季、庭植えのブルーベリーは豊作だった。収穫の大部分はジャムになった。だが、少々煮詰めすぎたのかボソボソ感のあるジャムとなった。

決してブルーベリーの実がボソボソで、水分が少なかったのではない。生食すれば、いつもの通りの食感だったから。というコトは、妻が加減に失敗したんだろう。だが・・・昨今の手作りジャムとして売られているモノの多くはユルユルの加減が多く、実はソレがワガハイ的には好みではない。

ジャムは、煮るコトでジャムとして生まれ変わるのであって、その為にはユルユルの加減では中途半端なのだ。まあ、今回の我家のブルーベリージャムはボソボソ感が強めになってしまったのだが、ユルユルよりは良いと思うのは・・・たぶん、小数派の好みなのかもしれない。

 

ブルーベリーはツツジ科なので、どことなく紅葉の雰囲気はドウダンツツジを思い起こす。勿論、ドウダンツツジの方が葉は小さいが・・・紅葉の色の強烈さもドウダンツツジの方が派手だが。

結婚当初に住んだアパートに入る道の植え込みに、ドウダンツツジがあった。広い庭のあるお宅で、庭いじりの好きなご主人が日々、庭の手入れをされて老後を過ごされていた。そのドウダンツツジの紅葉は猛烈な発色の良さだった。その綺麗さを褒めたワガハイは、そのご主人と長話をした。その時も、我家の小さな鉢植えブルーベリーを並べて「似ているなぁ・・・」なんて話しをした。内容の詳細は忘れたが。

もう30年以上前のコトだから、そのご主人も存命ではないだろう・・・100歳超え、っていうコトはまずないだろうから。

 

昨日「雑木林の博物誌」という本のコトを少し書いたが、雑木林っていうのは天然林ではない。人が管理し、利用している林だ。そしてただ美しい風景を形作る為の存在でもない。雑木林の美しさは「用の美」でもあるだろう。

そうした「用の美」というのが希薄になった昨今、それは「機能美」ばかりに気を取られているからだろうか?

 

ま、思いつくままに書き連ねているが、こうしてダラダラ連想に任せつつも普段から思っているコトのナニガシカが表出してきた。

それは・・・用の美!ってぇキーワードだ。

 

知人の工芸家から展覧会の案内が送られてきた。そのDMの画像を見ると、なんか・・・「加飾にはしっているなぁ」というのが感想。実物を見れば、形態と加飾のバランスはとれているのかもしれないが、DMの印象はどうも疑問だ。

「用の美」とは、工芸作品の世界で聞くコトの多い言葉だと思う。だがワガハイ的にはこの「用の美」という考え方、或いは感覚的な捉え方、嗜好もあるだろう・・・を、クルマに当てはめてみた。

すると・・・「機能美」が「用の美」と一致する点もあれば異なる点もある。そしてなにより昨今のクルマが過剰な加飾でうるさい、と感ずる。もはや空力をはじめて様々な様々な問題をコンピュータに入力していくと、その最適解はどのメーカーであろうと大差ないんだろう。そして差異を表現するために加飾に凝る。

もはや、クルマの走りは「加飾に走って」いるのだ?

なんか、本題とは無関係のトコロで売れ筋が作られているのでは・・・って、ソレは今に始まったコトではないか。

 

だが、間違いなくドウダンツツジの植え込みは、「用の美」に適っていた。味気ない金属製のフェンスではなく、やっぱり生け垣や植え込みはいい。時に毒虫に集られる時もあるが。

思い立ってストリートビューで、その思い出のドウダンツツジの植え込みを見てみる・・・それらは大きく育ち、他の種目の木々と合わせて生け垣に仕立てられていた。幾らかドウダンツツジは間引かれたみたいだが、あのご主人の植えられたドウダンツツジは引き継がれているみたいだ。

跡継ぎの方の親への気持ちも表れているかのようで、チョット嬉しい気分。