Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする四捨五入して還暦男の、適当な言語の羅列記録・自称乱学者

伸びて縮んで、また伸びて・・・変幻自在の「ばら」という作品

プランター植えのフジ

フジの花もソロソロ終わりで、だいぶ散り始めた。フジは手間のかかる植物ではない。ただ、花芽を切らないように気をつけるコトと、仕立てる方針がブレないようにする点に留意すればイイように思う。

だが、それを覚えるには一通りの季節を手元に置いて育ててみないと分からない。園芸書を読んだだけではやっぱり分からない・・・というのは、ワガハイの能力の問題かもしれないが、園芸書を読みながら、剪定し過ぎたり、花芽を切ってしまったりとか、失敗はする。

ま、間違えても一年我慢すればまた花は咲く。

だが、樹木っていうのはどれでもそうなんだが、剪定の失敗は樹形に必ず痕跡を残す。そして時々、その失敗の結果の樹形を見て「あの時の判断」の一瞬を後悔したりする。でも、樹形が意図と外れるのは致し方ない。ソモソモ意図通りに育たないのが生き物である。

というコトは・・・あまり先入観を強く持っていない方がイイ?ナリユキがイイ?

 

ま、決めつけが強いと動きづらくなるっていうコトは間違いない。これは絵を描く時に学んだコトだが、余程カタチをとるのが巧みな人ならいざ知らず、普通は幾らか画面上で探りながら、カタチを決めていくモンだ。

始まりはモヤモヤ、ポヨポヨと画面の収まりなどアタリを付けていって・・・徐々に精度を詰めていく・・・そうして画面の世界を構築していく。案外、描き始めは大した理由など無くても、描き探る中で発見していくカタチや線に触発などされて、だんだんと絵が決まっていったりする。

これは、東洋的な水墨画とか、日本画などではやりづらい方法だが、西欧的な絵画の技法では、木炭デッサンであろうと常識的な方法だ。描いては消し、消しては描くという反復の中から強い画面が構築されていく。

油彩画なんていうのは、その極みだけどねぇ・・・散々厚塗りした絵具をナイフで削り落としてしまったり、下地に入っている色の効果が表面化してきたり、それが意図的であったり偶発的なモノだったり・・・そうして複雑な表情が生ずる。それは何故か?油絵具が不透明な画材ではないからだ。

意外に思われる方もおられると思うが、色にもよるが・・・まあ、透明な画材である。それが油彩画ならではの複雑さに繋がるんだな。表面で反射する光と、絵具の層を抜けてキャンバスの下地の色に反射して表面に出てくる光・・・テクスチャーによって乱反射した光・・・まあ、要素はキリがない。

 

そんなコトを考えながら、いろいろ失敗した剪定の痕跡など眺めたりする。それにしても、クロード・モネの有名な「睡蓮」の連作の幾つかは、絵具の層と、その層に関わる光の戯れという絵画表面上で起こる現象と、実際のジヴェルニーの庭の光が一致するわけではないだろう。だが、木々の連なり重なる葉の表面での色彩と光や水面の瞬きといった表現を、絵画表面上で起こる現象に置き換えられた様にして、在る、ってな感じだ。

ま、残念ながらモネの表現がどんなに素晴らしくても、プランター植えのフジから香る素晴らしい香りには敵わないケドねぇ。

 

国立西洋美術館の松方コレクションにあるクロード・モネ「睡蓮(1916)」を念頭にして、本日のブログは書いている。

ま、そうは言ってもフィンセント・ファン・ゴッホ「ばら(1889)」の方が、ワガハイ的には興味あるケドね。というか、松方コレクションで一番好きな作品だな。小さな作品で「33×41.3cm」なのだ。

ところが、この「ばら」という作品は、ワガハイのイメージ(記憶)の中ではドンドンと巨大化していってしまう。遂には50号位の大きさの作品のような感覚になっていってしまう。

そして改めて「33×41.3cm」というサイズを考え直してしまう。

伸びて縮んで、また伸びて・・・変幻自在の「ばら」という作品。こういうコトは「睡蓮」では起こらない。久しぶりに対面してもイメージ(記憶)との誤差はない。

ワガハイ、ゴッホさんから学んだコトは、物理的な大きさっていうのは大きな問題ではない、というコトだ。

 

ポール・セザンヌの「ポントワーズの橋と堰(1881)」っていう作品も、もの凄~く作品から離れてこそ、その力を発揮するという・・・引きに強い作品だがねぇ。至近距離で鑑賞してばかりでは勿体ない作品だと思う(国立西洋美術館・・・この作品にとっては展示空間が狭いなぁ)。

 

我家の庭も・・・チト狭いんだがねぇ。庭はイメージじゃなくて、やっぱり植物という生き物を植えているので、物理的な大きさっていうのは制約になるからねぇ。クロード・モネさんのジヴェルニーの庭って、理想的過ぎるなぁ・・・なんか、ズルいよなぁ。