昨日の当ブログ後半でチョロッと書いた「三熊野神社」である。横須賀城址から1.5kmほど東に位置する。ワガハイはクルマで移動してしまったので、古からの街道筋ではないか?と思われる道筋には神社仏閣が複数あった。家並みは建て替えられているものの、その道に面した建て方で、かつての風景というものが想像出来るようにも思えた。
あらためて地図で確認してみると、横須賀城址から東に向って・・・
妙徳寺/月夜見神社/軍神社/林正寺/善福寺/長圓寺/愛宕神社/三熊野神社/金刀比羅神社/安禅寺
等が見つかる。通りから奥まったところを加えれば、まだまだある。もうこれだけで、古くから栄えた地だということが分かるなぁ。更にはワガハイの触手に引っ掛かるところでは・・・
飯田酢造店「マルカメ酢」/遠州山中酒造株式会社「葵天下」/栄醤油醸造/栗山製麸所 だなぁ。
この日は午後から袋井でちょっとしたお仕事があったので、その時間調整でウロウロした。だからこうした場所を細かく見て回り、購入したりすることは出来なかった。またあらためてユックリと・・・と思ってザックリ見て回った。だからクルマの中から「ここなんだなぁ」と横目で見て通り過ぎてしまった。ただ「三熊野神社」はクルマも停めやすかったので参拝となった。
画像では読みにくいので、例によって書き写す。
三熊野神社(通俗は総社及び三社様)
御祭神 伊邪那美命(いざなみのみこと) 早玉男命(はやたまおのみこと) 事解男命(ことさかおのみこと)
当神社は、大宝元年(西暦七〇一年)九月九日、第四十二代文武天皇
の御勅願により、紀州熊野三社を勧請(かんじょう)した。
文武天皇の后宮子(藤原不比等の娘)は、御懐妊を願って「安産で皇
子が誕生したら、東に三つの社を建て、勧請して日夜敬(うやま)い申上げます」
と、幼時より深く信仰している熊野神社に祈願した。真心込めた願いは
やがて天に通じ、無事に皇子が誕生(後の聖武天皇)。天皇も后も大変感
激なされ、お願いが成就したからにはと、急いで東の国に社を建てる事
にした。幸いな事には、東に貢物を納入してくる鎮国の遠江国があるので勅命で司宮奥野左衛門是吉を派遣し、場所を探させた。是吉が当地
に来てみると、南は大海原で渚も清く、北は山また山の続く地形なので
「本宮の境内に異ならず」と、当所に本宮、三里(十二キロ)東の高松
に新宮、北の小笠山に那智と三社の宮地を決め、萱(かや)を刈り、玉串(たまぐし)を立て
て帰洛した。天皇は是吉を熊野へ遣わし、勅幣を捧げて祈り梛木の木
でみくらを調べ、御正体と補佐五伴の神をまつり、八重の注連(しめなわ)、榊で飾
った船に神輿を移し、牟呂(むろ)の津より大海原をお渡りになって、大宝元年
八月四日の夕、当町雨垂の浜に御着岸、翌五日に仮殿にお移し申した。
この時里人は初作りの粟飯を神前にお供えした。
新築なった御正殿に鎮座されたのは、九月九日である。以来今日に至
まで、神徳霊験あらたかな三社大明神と崇(あが)められている。
当神社は、災難除、子授け、安産縁結びの守神として信仰が厚い。御例祭日 大祭 四月第一土曜日、日曜日(三社まつり)
神事・地固めの舞、田遊び、神輿渡御、神子抱き
十三町山車引き廻し
中祭 十月八日・九日 信心神楽奉納境内社 諏訪神社 祭神大国主命(福の神)建御名方命(農耕の神)
天神社 祭神菅原道真(文教の神)
奥野神社 祭神奥野左衛門是吉大 須 賀
解説板の内容は、なかなか感じ入るものがあった。「八重の注連、榊で飾った船に神輿を移し、牟呂の津より大海原をお渡りになって、大宝元年八月四日の夕、当町雨垂の浜に御着岸・・・」というと、なんだか神奈川県真鶴町の、貴船神社の祭りを思い浮かべてしまうのだ(茅ヶ崎の浜降祭も)。神輿が大海原を渡るっていうのは、なんか壮大なイメージだなぁ・・・
なんかイイ感じだと思いませんかねぇ・・・?観光地っぽく作り込まれていないのが、好感度高いと思うんですな。門前町がデカくなりすぎると面白くなくなってくるんだなぁ・・・でも、柴又帝釈天までいくと、無茶苦茶面白いんだけどねぇ(なんか不謹慎なコト言ってるかな?)。
さて、せっかくここまで来たんだから、子供の頃にお土産で頂いた羊羹は買わなければならない。ワガハイが中学生の頃に食べて記憶に残っている羊羹だ。
県立横須賀高校の西側に位置する「愛宕下羊羹」だ。言うまでもなく有名なお店で、ワガハイはザッと計算して36~7年ぶりに食べた。これは美味だったねぇ。まあ、これ以上、有名になると入手不可になっても困るんだが・・・なんだか急にその味わいを思い出してきてしまったな。ああ、遠州かぁ~、チト遠いんだよなぁ。