Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

追記・・・代表的日本人の一人「二宮尊徳」について尊徳記念館を見る 1

暫く間があいてしまったが、成田山新勝寺の説明板にあった「二宮尊徳」について追記してみようと思う。

etsuro1.hatenablog.com

「相模の国の名もない村」・・・相模の国足柄上郡栢山(かやま)村(現在の小田原市栢山)に生まれた。1787年のことであった。では、現在その地はどの様になっているかというと、以下の画像である。

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文化財だねぇ・・・小田原市 尊徳記念館

屋根周りのスプリンクラーがうるさいけれど、それは保安上仕方ないか?もっとイイ設置方法はないのだろうか?まあ、一番火災消火に効率的な位置なのだろうか?でも、ガンガンに燃え始めたら配管が熱で曲がったりして問題は生じないのだろうか?これもまた、法律的な基準を満たしているのだろうから問題無いというコトなんだろうか?本当にこの方法でイイのか?ちょっと疑問はある。というか、かなり?マークを連発してしまったな。

ま、美的にはダメだねぇ・・・それは疑問の余地はない。

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文化財内部1

貧しい農夫の家に生まれたとされるが、現代の住宅事情を考えると結構な大空間と思われる立派な木造建築に思えるんだがなぁ。だから案外、我々は豊かになっているとは限らないのである。ま、相当に補修されているのは当然だから、あまり現存の文化財から推し量り過ぎないほうがイイのかもしれない。

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文化財内部2

ありがちだが、農具などが置かれて説明が書かれてある。暑い日だったが、この空間を覗き込むためにアタマを突っ込むと、ヒンヤリした空気が漂っている。敷居を境に暖気と寒気がせめぎあって、そこに前線が発達して雲が発生しそうな程の気温の落差があった。こりゃあ、夏の暑さをしのぐには最高なんだが・・・たぶんコロナ禍の影響もあるんだろうが、内部立入禁止で、外側から開口部を覗き込むことしか出来ない。

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文化財内部3

囲炉裏はあるが、使われてはいないだろう。天井が全く黒くなってない。これ、煙で燻すことで虫除けになったりする効果があったのでは?まあ、文化財だからなぁ・・・展示物だからなぁ・・・火は使えないのかもしれない。とすると、防虫剤とか使っているんだろうか?昔の床掃除ってぇヤツは、米ぬかとか使って磨いたりしていたと聞いたコトもあったんだが、かつてはこの建物も、そういう日常の掃除をされていたんだろうか?ソモソモ近くを流れる酒匂川の氾濫で浸水の多かった場所だろうから、しょっちゅう壁や床材を補修しなければならなかったのだろうか?ならば、案外日頃のメンテナンスは大雑把だったのだろうか?今のメンテナンスは、まさかリンレイのフローリングワックスなんて塗ってないよなぁ???

またも???と連発してしまったな。

梁に積もった埃が気になるんだが・・・流行りの古民家カフェなんかでも、そうそう梁の掃除は手が回らないとみえて、なんだか見上げると怪しいものがワガハイの皿の上に落ちてこなければいいのだが・・・と不安になるコトもある。別の場所だが、こうした古い建物に、朝一番で入ってみたら・・・床に天井付近から落下したと思われるいろいろなモノが床に散乱していた、の図・・・てぇヤツを目撃した経験もあるからな。

ま、流行りだけど、カッコイイけど、皆さん気をつけて下さいね!

 

二宮尊徳が公子の本一冊を読み込んでいた頃に比べて、現在の教育システムは制度的には整ってしまった。今日この頃の状況では、16才で親を亡くし、伯父の世話を受けながら一冊の本から独学をはじめるというのは、案外困難なことになってしまった。そういう方法では間に合わない社会になってしまった。

でも、そういう進んだ教育システムの中で優秀な成績を収めてきたエリートという、言わばアスリート級の方達が永田町・霞ヶ関界隈に集って、国という巨大艦船を操縦されている。まさに大船に乗った気持ちで安堵しておれば良いのだろう(もちろんイヤミですよ~)。たぶん、ノアの方舟よりも安泰なんでしょうから。

ナニを騒いでおるか!コロナ禍の最中、私達は既にノアの方舟にいる!  かなぁ・・・ポリポリ。

 

ここで「代表的日本人(内村鑑三著)」の「二宮尊徳」ではなく、「上杉鷹山」についての記述から引用しようと思う。

封建制度にも欠陥はありました。その欠陥のために立憲制に代わりました。しかし鼠を追い出そうとして、火が納屋をも焼き払ったのではないかと心配しています。封建制とともに、それと結び付いていた忠義や武士道、また勇気とか人情というものも沢山、私どものもとからなくなりました。ほんとうの忠義というものは、君主と家臣とが、たがいに直接顔を合わせているところに、はじめて成り立つものです。その間に「制度」を入れたとしましょう。君主はただの治者にすぎず、家臣はただの人民であるにすぎません。もはや忠義はありません。憲法に定める権利を求める争いが生じ、争いを解決するために文書に頼ろうとします。昔のように心に頼ろうとはしません。(代表的日本人 内村鑑三著 鈴木範久訳 岩波文庫 p.53  l.7) 注:太文字はワガハイによる

この引用を読んで興味が湧いた方は、是非とも全編を読まれたし。部分引用だから、ここでいう「制度」については、コレだけでは誤解するかもしれない。それは留意されたし!

ま、この引用箇所前後を読んでいると、やっぱり聖書の律法学者に関するコトを、裏側で書いているように思いますな。あれこそ形骸化の極地みたいなもんだからな。

公休日(安息日)に病人を診療したら罰せられるような社会だったみたいだからなぁ。それを批判して病人を癒やしたイエス・キリスト。そのココロは“愛”だねぇ。大昔のエルサレム社会だったら、救急隊員なんて律法違反で罪人だからねぇ。コロナ禍で働く病院スタッフなんて、どれだけの罪を重ねたか分からないことになってしまう。現代の常識ではあり得ないよな。規則や制度に雁字搦めになると、まずいことも起りますな。

 

つまり、制度とか様式とかっていうヤツが定まらないと、なかなか大所帯は大変なんだが、美術表現なんかの変遷を見ているとすぐに分かると思うんですな。様式化のすぐ後に形骸化が追っかけてくる・・・そういうもんだ。だから二番手はコトを理解しない、あるいは出来ない。これはあらゆるコトで起るな。

 

さて、「明かりははっきりと見え始めている」らしい。菅義偉さんはどんな明かりを見ているんだろう?(ま、破けた襖からも光は漏れるからなぁ・・・ポリポリ)

きっとワガハイに見える明かりとは全く違う明かりなんだろうなぁ・・・。ワガハイには明かりは見えますよ!なんか今晩も旨酒が呑めそうな気がする、っていう明かりだねぇ。結局、コレだねぇ・・・

 

本日はここまで、また次回。

 

※  人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。(マルコによる福音書 03章02節)
そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。(マルコによる福音書 03章04節)

本日はマルコからの引用で紹介