当ブログでは時々、晩酌時の妻との語らいのメモ書き代わりの内容がある。一昨日からの内容も、その一部だ。本日はその一区切りになる。事情を知らない人にとっては、話の内容は一気に飛んでしまっているように感ずるかもしれない。
で・・・ここにたどり着く。
東京の中心は皇居であり、そこには誰も入ることができない。フランスでは町の中心は教会であり、人々が集まってくる濃密な中心である。東京では中心が空虚になっているではないか、とバルトは驚く。あるいは料理の場合・・・(以下省略)
この記述は、「ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家 石川美子著 中公新書」というバルト生誕100年に出版された本のp.90にある。それは「第三章 ロマネスクのほうへ」のトコロだ。そのカテゴライズも興味深く、とても肯定的な意味で語り尽くすことが出来ない。
まあ、ガッツリとバルトを読み込むというのも、なかなか出来るものではないだろう。やはり敷居は高いのだ。あの、とりあえずは取っつきやすい部類と思われる「明るい部屋」でさえ、前言を撤回した以降の記述は神秘主義の中に彷徨った読解になってしまうらしい。ただ救いは文章の美しさということ。
読解の領域に踏み込めずに失速していってしまうコトは、しばしば起こることだが。それは確かにロマネスクを単なる様式ではなく受け止めるのが困難、という点とも共通するのかもしれない。「写真」のはじまりは紛れもなくロマネスクと関わるのだから(特にニエプス)。そしてコレが「失われた世界」であると称されるならば、それはそうかもしれない。
しかし、失われてはいない。きちんと気付かないうちに継承されている。気づく人には気付く問題であり、それはデジタルになった写真でも繋がっている。ただ、味わいは相当に淡くなってしまったけれど。
それで上の引用先の続きは「文楽」のコトになっていく。それはまた「能」の身体性という点でアレコレ語られた昭和の末頃の鈴木忠志(演出家)の話しのなかに出てくる内容にも通ずる点はあるように思う(利賀村でお会いした時にも、そのコトを熱く語られていた)。
ただ、バルトさんの「文楽」への興味は、やはりヨーロッパの社会性において論じてきた方の視点からの分析であって、実際の日本人が「文楽」を観るに当たっては、そんな面倒な手続きを感じながら楽しんでいるワケではないだろう。まったく抵抗がないという感覚の中では、構造分析はなされないだろうから。分析的な観方は、やはり外部視点からだ。
まあ、実用において、それがどの様な意味・歴史を内包するのかなど知る必要もない。ひたすら利便性の追求と、コストパフォーマンスの追求の方が切実だから。それと今では環境問題、SDGsに繋がれるかどうか?だ。
昔は祈り(礼拝)を大量消費していたのだが、それが写真というペラペラの紙切れの大量消費に替わった・・・といった内容は、「明るい部屋」の何処かに書かれていたけれど、それは「記念」とはナニゴトか?という問題に繋がっている。
その、繋がりは・・・
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネによる福音書15章4節 新共同訳)
という箇所を連想している。
ナニに繋がるか?まあナニにリンクするか?という言い方の方が伝わりやすいのだろうか?時代が変われば繋がるモノも変化していくのだろうが。
ただ感じ続けているコトとしては、世界が段々と「中心が空虚」な状況になってきているのではないか?ということ。そういう点では案外、日本は最先端を走っているのかもしれない、と思ったりする。
補足1:ヨハネによる福音書15章は、ぶどうの枝と実について書かれている。それを読むと短梢剪定のコトを例えとして用いていると思われる。つまり当時の栽培方法は短梢剪定が定番だったのかもしれない。長梢剪定を前提とすれば、こうした例えとはニュアンスが違ってくると思う。ブドウ栽培を趣味とし、酒呑みであるワガハイにとって聖書は信仰の書のみにあらず。結構、実用書でもある。イエスさんは手練れのソムリエだと思われる記述もあるし。
補足2:「中心が空虚」というのは、抽象絵画でもテーマとなっていたコトだったなぁ。