Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

「暑さ寒さも彼岸まで」・・・梅沢海岸の坂から渋滞を見る

「暑さ寒さも彼岸まで」と、ナニかにつけて挨拶に使われた昭和の時代だった。最近、そんなに使われないのではなかろうか?死語、と位置づけられる程ではないかもしれないが、あまり聞かなくなった。

「あともう少しの我慢だから。暑さ寒さも彼岸までって言うでしょ?もう少しの我慢・・・」

一日のうちに何度も祖母は言っていた。そして買い物中の主婦の立ち話でも、

「あと少しね、暑さ寒さも彼岸まで!」

「そうそう、暑さ寒さも彼岸まで!じゃあまた。」

そんな会話がしきりに聞かれた。

神奈川県二宮町梅沢海岸にて・・・西湘バイパスの渋滞(上り線)

あの頃の暑さって・・・今から思えば大したコトなかったけど。エアコンの普及率は低かったが、無くても扇風機で過ごせた。それは郊外や田舎の環境だったからというワケでもなく、叔父が住んでいた東京中野の密集地でも、エアコン無しで窓を開けて扇風機だった。そして「暑い!暑い!」といいながら、この団扇の方が涼しいだの、この団扇は駄目だの、扇子の出来がイイとか悪いとか・・・趣味人の叔父は延々と語っていた。

いま思うと、ロクでもない叔父だったケド。元酒蔵の息子で、酒造りの仕事が嫌だったから親の亡き後に売っぱらって遺産を兄弟で山分けした叔父だ。たぶん、以前もこのコトは書いた気がするケド。

まあ、それはソレでヨカッタとは思う・・・あの叔父が酒蔵を継いでいても、その後にやって来る吟醸酒ブームとか、ペラい流行の波の乗り方しか考えない人だったと思うから、どのみち廃業に追い込まれていただろう。香味感性も大したコトのない、ブランド志向だけだったから。

酒蔵経営が継続していたとしても、観光ワイナリーの極み!みたいなコトを、日本酒蔵でやるなら上手だったかもしれない。だが、それも雇う番頭次第だ。あの男は人前にアタマは下げないタイプだったから、お客に接したらアウトだったな。東京商科大学一橋大学の前身)出身だったからか、ソロバンは速かったなぁ・・・。

というワケで、たった一人の叔父のイメージから、ワガハイは一橋大学出身というのは警戒してしまうのだった。

イメージってぇのは、怖いねぇ・・・そして、さもないコトで形成されるモンだねぇ。

一橋大学関係者の皆さん、というワケでワガハイが印象を悪くしているのは、たった一人の叔父が犯人だからねぇ。

墓地入口の坂道から見た図

だから・・・日大、ヤバいよなぁ。それは一人の問題ではないけれど、もういい加減、日大を受験するコト自体が忌諱されても仕方ないよなぁ・・・。まあ、どこも似たり寄ったりの状況なのかもしれないが。

しかし・・・そんなに薬物系に関して、世の中は病み続けているんだろうか?いい加減、そういうコトに手を出すとロクなコトにはならないという、学習ってぇのはないのだろうか?

 

まあ・・・ナニ言っても無力ではあるか。世界は相変わらず武器中毒だから。やっぱ火薬類が爆発するのが好きなんだねぇ・・・人間っていう動物は。火を手にしたコトが猿との違いなワケだから、仕方ないのかねぇ?思えば火祭りとか、祈祷での「お炊き上げ」とか、それを信ずる方には叱られるだろうが、ワガハイにとっては火遊びにしか思えない。子供の頃から「そんなの関係ないだろうに・・・」と思っていたから。

それに棺に納められて共に火葬されてしまった名品の数々・・・ってなコトも、ねぇ?ど~~~なんでしょうねぇ。国宝級の伝統工芸品も、沢山あの世に渡ったコトだろうなぁ。

だからバブル期に、印象派の名作を買った何処かの大企業の社長が「俺が死んだらあの絵を棺に・・・」ってなコト言ったよな。それで世界中の顰蹙ってなコトになったと記憶している。「名品を日本に売り渡したら終わりだ・・・」ってな印象を、あの一言で世界中にもたらしたコトって、案外響いているんだけど。

 

と、思い出し、連想し、書いた。マイドのコトだけど。

 

草に埋もれて上れない階段・・・この上から見た海景がイイんだが

彼岸だけに、夕暮れ時でも墓地から線香のニオイが漂ってくる。線香も、ニオイの質によっては悪臭だ。ちょっと退散したくなるようなニオイに閉口しつつも、月と海は綺麗だった。アンセル・アダムスの「月とハーフドーム」を思い出したりしつつ・・・。