Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

「よこすか海軍カレー」・・・横須賀の歴史って近代からだねぇ

昨日の当ブログについて妻曰く・・・「ゲルニカがどこにあるのか探してしまった。ボカシが強すぎてわかり辛かった。」

それでイイんである。通常、街並みなどの公の空間に置かれた屋外彫刻作品などを風景として撮影しても、その作品の著作権者にアレコレ言われることはない。風景として撮影したというような構図であるコトは、誤解されない為にも要件だが。

だから精密な複写みたいな撮影は、まあ・・・撮ったとしても使うには、前もって権利者に確認する。もっとも、そんな撮影はまずしないけれど。

勿論、撮影不可の表示がされていないことの確認は当たり前である。

でもまあ・・・このゲルニカはたぶん無断複製なのだろうし、無断であるモノを撮るというのは、コレまたややこしい。そういうワケで、ピカソが絡んでくるコトもあって強力なボカシにしておいた方が無難だろう。

概ね、この場合はボカさなくても大丈夫なんだろうが・・・ゲルニカっていえば、それがどの様な絵面なのかはワガハイが示す必要もないだろう。

etsuro1.hatenablog.c

 

のらくろ」が出たから、次は「よこすか海軍カレー」という流れになる。

よこすか海軍カレー

神奈川県の横須賀というトコロは、昔々は「夏島貝塚」なんてぇのもある位だから、そういう人々の生活があった場所だ。もっとも、それを言い出すと昔過ぎてねぇ・・・。

というコトで、江戸時代だと海上交通の要所である浦賀水道がある場所だから、「浦賀奉行所(1720年)」やら「燈明堂(1648年)」が置かれたりした。ペリー来航の浦賀っていうのが、歴史教科書的には誰もがインパクトのある記憶となっていると思う。

横須賀の歴史って、やっぱり近代からだねぇ。

幕末の慶応元年(1865年)!慶応ですよ!! 横須賀製鉄所(造船所)が出来た。それが明治期に「横須賀鎮守府」→「横須賀海軍工廠1903年)」となり、軍艦の造船をした。

横須賀の発展は、結局「横須賀海軍工廠」によって雇用が生まれ、人口が増えたってコトが大きい。何人かの横須賀出身の方の話では、元々は地方の次男、三男が職を求めて海軍工廠にやって来たのが始まりで、江戸時代からの横須賀居住者っていうのは猛烈に少ないという話だった。

だろうなぁ・・・と、思う話ではある。

よこすか海軍カレー」のパッケージには、〈横須賀ハ 海軍トトモニ歩ンデキタ街〉と書かれている。そして現在は「海上自衛隊」と「アメリカ海軍第7艦隊」というコトか。

ワガハイがモノゴコロついた頃、昭和40年代の横須賀は・・・横須賀中央駅の界隈だが、アメリカ兵の姿が多くて怖かったなぁ。父親にしがみついて歩いた記憶が残っている。

変だねぇ?〈イギリス海軍ヲ範トシテ・・・〉カレーを採用した日本海軍だったんじゃね?いつの間にかイギリスではなくてアメリカになってしまった。

まあ・・・ディープなコトを調べていくと、ペリーにしてもマッカーサーにしても、アメリカが来たのかイギリスが来たのか、なんだかよ~ワカランことにはなるのだけれど。

 

とにかく、このレトルトカレーは、〈明治41年の海軍割烹術参考書の「カレイライス」レシピを素に、食べやすく復元した・・・〉という。味のベースとしてはかなり甘目なところに辛さが乗る。そして妙なモノを食うと直ぐに胸やけを起こしたりするワガハイだが、コレは問題なかった。

この商品、販売者は横須賀だが、製造は大阪府泉南市りんくう南浜・・・?

大阪で作っているんだなぁ。

 

因みに一緒に購入した、どこでも入手しやすい「銀座キーマカリー 中辛 (販売者:明治)」は、ワガハイ的には軽い胸やけを起こした。そういう点からも、「よこすか海軍カレー」の方が、ワガハイ的には安心である。お値段が違うけれどねぇ。

 

※ 燈明堂は浦賀港の入口にある。1869年(明治2年)に観音崎灯台が出来るまでの灯台なのだが、今は復元された形で名所となっている。この海岸でボ~っと浦賀水道を行きかう船を見ているのは楽しい。海の幅が狭いから、とにかく船舶の密度が凄い!ワガハイが好きな場所の一つだ。京急浦賀駅から徒歩40分程度、だいたい3km程度の道のりだ。バス便はとても少ないので、歩く。