Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

昭和20年6月10日

昭和20年6月10日(日)朝、霞ケ浦に面した阿見町と、土浦海軍航空隊は爆撃された。防空壕の中で生き延びたワガハイの父親と仲間は、生き埋めとなった仲間を救出するためにスコップを持って掩体壕に向かった。その掩体壕は現在の陸上自衛隊土浦駐屯地西側に位置する「鹿島神社」のそばだったという。

米軍的には、どこに掩体壕があるかなんて偵察済みだったのだろう。完璧に崩された掩体壕の中から、必死になって救出を試みた父たちは、結局一人も命を救い出すことは出来ずに、死体を掘り起こすことになった。

父は生前、このことを封印していた。だが、そういう爆撃があったことをワガハイは知ったので、父が経験していたのではないかと思って聞いてみたところ・・・話し始めた。その内容の多くは、以下リンク先の「予科練平和祈念館」の展示の内容に重複する。

フロアガイド | 予科練平和記念館 (yokaren-heiwa.jp)

ただ、父の発した言葉の中で一言だけここに記述しておきたいのは・・・

蒸し焼き状態の人間

以上である。

 

父は戦後も暫く、蒸し料理を受け付けなかったという。

ま・・・そういうことだ。

 

幸せなことに、ワガハイは蒸し料理が大好きだ。

 

父は、なんとか頑張れば徴兵をかわせたのではないか、と思える微妙な年齢だった。だが、近所の1~2歳先輩たちが次々と招集されて戦死していく中、我が家からも誰かが戦地へ行って、お国の為に戦わなければならないと考えるようになる。そして同調圧力というヤツも強かったワケだが、志願せざるを得ない状況に追い込まれていった・・・と。

思えば不思議なもんだ・・・大正から昭和っていう時代は戦争の時代で、お国の為に働くという教育が徹底された。だから親も、息子がお国の為に尽くせるようにと教育した。そうして立派な兵隊さんになって、お国の為に働きなさい・・・ではなく、いつの間にか「お国の為に死になさい」になった。

死すために英才教育をする・・・という、妙な状況になっているコトに、当時の人たちは気づかなかった・・・みたい。多くの人たちは疑わなかった・・・みたい。

 

父の痴呆が進み始めた頃、ワガハイは重い腰を上げて常磐線に乗って土浦に出かけた。そして「鹿島神社」にお参りした。後日、その報告を父にしたが・・・

放心状態になってしまったボケはじめの父。

果たして、ワガハイがそこへ行ったのは良かったのか悪かったのか分からん。別に父は喜びもしなかったし、怒りもしなかった。ただ茫然としていた。そして・・・「もう、なにも無かっただろう」と言った。

父は戦地へは行かなかったと思っていた。そして戦死した従妹たちや友人に、複雑な心境を抱いていたのだと思う。だが、ワガハイは土浦に行ってみて気づいたことは、ここが父にとっての戦場だったんだなぁ・・・ということだった。

「オヤジ、アメリカ軍に一矢報いるという戦いは出来なかったにしても、間違いなく、その時の土浦は戦場だったんじゃない?オヤジは戦地に立っていたんじゃないか?」

ワガハイはそう思ったから、そのように感想を父に伝えた。

「あれが俺の戦場?・・・戦場だったんだ・・・」

そう言って父は泣いた。でもなんか・・・救われた部分もあったみたいな雰囲気だった。戦地に行かずに終戦を迎えて生きていることに、なにか引け目を感じているところがあったのかもしれない。

会話はそれで終わった。

 

東京大空襲とか、横浜空襲とか言うけれど・・・空襲っていうか、国土が戦場になったっていう認識が、なんか薄いのでは?と思う・・・少なくとも我が身の回りの大人たちだった。)

 

そんなことを急に思い出した今朝は、つまり6月10日が近づいているわけだ。

青水ますます色濃くなり・・・メダカの稚魚が分かりづらいんだが

まだまだ生まれるメダカ。そんな生命を見ながら・・・実に撮影し辛くて四苦八苦したんだが・・・脳味噌の半分では父親の複雑な心境を思い出していた。