Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

昨日続きで思い出した戦争の話・・・「絶対に生きていると確信して歩いた」

昨日の当ブログは、内容が重かった。だが、戦争経験者がゼロになりつつある今、次は当事者から直接話を聞いた世代が、ドンドンと減少していく段階に入ってきた。ワガハイも、聞いた話の幾つかをこのブログに書いておこうと思う。なんか、書くタイミングになった時に、気まぐれに書くことになるが。

 

家族の人間関係にもよるし、キャラクターにも関係してくるが、我が親族って、戦争中の肝心なところは語ってくれない人ばかりだった。

そういうもんなのだろうか?いい思い出ではないからなぁ。

それでもワガハイは小学生の頃、執拗に祖母に質問したので、日常的なコトに関する話は聞きだせた。でも・・・空襲のなかを逃げた時の状況については「無我夢中だったからよく分からない」という一言で、幾らかでも状況を知りたいワガハイの期待には応えてくれなかった。

ワガハイはこうなるとしつこいので、自分一人で動き回れる大人になってから、当時の状況などナニ一つ残っていない横浜のある地域を歩いてみた。地図を見ながら、僅かな祖父母の話、母とその兄弟から聞き取った話、それらを突き合わせつつ歩いてみた。

川は護岸が整備されて、流れも若干は修正されている可能性があった。街の区割りは基本的に変わってはいないと思われたが、部分的に斜面は造成されたと思われ、そして部分的には区画が整理されただろう。

だが、大きな地形・・・小高い丘といった地形だが、変化はないと思われた。

今みたいに、昔の地形図をネットで閲覧できなかった当時だから、古い地図を参照するコトはなかったが、それでもまあまあイメージするコトは出来た。それは勝手な想像だけれど。

おそらく、大きな木々が茂っている神社仏閣の周辺や、大きくなり過ぎた植樹などを見つければ、それらや戦災を免れているとみていいだろうし、明らかに大正ロマン的風情のディテールが残る民家の一部を見つければ、そこもまた大きな被害は受けてないだろう。

そういう観察から概ね、逃げた方向に見当をつけた。それを母に話すと・・・

「お寺の裏手にあった家の方に、毛布を一枚貰った。それが後々まで助けになった。着の身着のままだったから・・・」

というような話を聞き出せた。だが、後日そのお宅にお礼に伺う余裕も無く、気づいた時には街も復興して、そのお宅の場所も分からなくなったという。

 

あ!正月、火鉢で餅を焼いている時に祖母が語りだしたコトを思い出した。その火鉢は今、我が家ではメダカが泳いでいる。その火鉢を囲んで従妹たちと餅を焼いていたんだなぁ。

すると祖母が懐かしむように、「防空壕の中で餅を焼いた・・・」と言った。ワガハイ「そんなコトしたら一酸化炭素中毒になりはしないか?」と思ったりしたが、つまりその程度の華奢な防空壕だったのだろう。庭の端にDIYで穴を掘って、中には板を敷いて茣蓙を敷き、和める空間になっていたみたいな話だった。

戦時中に牧歌的すぎる意識!

まさか米軍が本土を攻めるとは考えていなかったらしい。本気で「神風が起こる」と多くの国民が信じていたのだから。

だから戦況が厳しくなっても、身内に戦死者が出ても、国内にいる自分たちの身の上に焼夷弾が落とされる日が来るなど、庶民は想像も出来なかった。

強力に情報統制されていたからねぇ。

空襲警報が鳴って、どこそこの工場が爆撃されたというコトを知っても、それは軍関係の工場だからだ、と高をくくっていたみたいだ。

誤爆される可能性も視野に入ってなかった・・・薄い危機感!

そして・・・「欲しがりません、勝つまでは!」

元気な男の子のほとんどは、ゼロ戦に憧れていましたとさ。もう、飛行機も燃料も枯渇していたのに。

 

あ、例によって話題が脱線してきた。だが、こういうコトって思い出した流れで書いていかないと残せないんだよなぁ。

で・・・防空壕の話だ。それなりにインテリアに拘った防空壕だ。籠っていても快適な防空壕ライフを送れるようにと配慮したんだろう。だから防空壕の入口では靴を脱いで、まるで居間にでも上がるようにして入っていたという。

この緊迫感の無さ!アホである!!

そうして本番前にやや緊迫感が上がる状況があったらしく・・・こうなってくると突如、祖母の話の解像度が下がってしまったのだが・・・とにかく靴を脱いでいるといざという時に逃げ遅れると気づいた。それ以降、靴は脱がないコトにしたらしい。

なんか・・・・

正常化バイアス、というよりも、単なる脳天気というか・・・なんだろうねぇ?やっぱり祖母って料理は上手かったけれど、脳味噌パカだったんかねぇ?

そしていよいよ横浜空襲本番を迎える。ご近所の方たちとその防空壕に避難していたらしいが、ナントカのオヤジさんが「この防空壕じゃもたない・・・逃げよう!」というコトを言い出し、皆で逃げた・・・らしい。

 

翌日になって、自宅のあった場所へ戻ってみると・・・防空壕など跡形もなかったらしい。そう語ったのは祖母だが、祖父の話では、それは翌日ではなくて数日後だという。

祖父は横浜空襲の時、仕事上離れたトコロに居た。横浜が空襲だと聞き、直ぐに行動を起こした。行けるところまで近づいてみようというワケだ。そして東海道線が大船だか戸塚までは動くというのでそれに乗り、そこから先は歩いたという。逃げてくる人の流れに逆らって、祖父は家に向けて歩いたらしい。たぶん、途中までは箱根駅伝コースだな。

「絶対に生きていると確信して歩いた」と祖父は言った。それ以外のことは考えない。怪我をしていたとしても生き延びていると確信して歩いたらしい。そう思わなければ、心折れて歩けなってしまう、と。そして妻や子供たちを探し回らずに、焼け跡で待ったらしい。

そして再会。

焼け跡に一人立つ夫の姿を、祖母は凛々しく頼もしかったと言っていた。一方、祖父は遠くから歩いてくる家族の姿を見た途端、緊張が途切れて泣いたという。

その話をワガハイが聞いた頃の祖父は、コタツでタバコを吸いながら、その灰を着物の裾に落としては穴を開けるジジイだったから、到底、そんな祖父の姿を想像出来なかった。

祖父にも若くて体力のある時があった・・・そりゃそうだ!

マクロレンズで火鉢で飼っているメダカを撮ってみる・・・ムズい!