一昨日、昨日と、ワガハイの虚弱な子供の頃の話を書いた。アレルギーに限らず、治療を続けておられる子供・・・いや、適切な治療にたどり着いていない子供もおられるだろう。
医療は昭和30年代に比べたら格段に進んだかもしれない。だけど相変わらずトンチンカンな診断をする医者もおられるようだし・・・。とにかく成果の出る治療が早く見つかるように、と願い、祈る。
医者通いしていると、待合室でぽよ~ん、となっている子供とか見かけると、どうしても感情移入してしまうから。そういう時には「天の兄貴よ、ナントカしてやってくれぃ!」と祈る。これが不良キリスト者の祈り方だ。
つまりコレは、自分の経験に照らし合わせて、その辛さの記憶をなんとか浄化しようという不始末でしかないようにも思うけれど。所詮は自己愛!
まあ・・・どこを切っても金太郎飴のように自己愛が出てくるからねぇ。「隣人を愛せ!」なんて遥か彼方の問題なんである。
子供の治療の為に、懸命に通院した我が母親も、子供の為と同時に子育ての社会的責任を果たさなければならない、という大前提があるワケだし、それは世間体というカタチで切実に身に迫るっていう感覚が昭和ひとケタ生まれの世代の感覚だっただろう。
いや~~、昔の人・・・あ、ワガハイも既に昔の人だから・・・ってぇコトは、大昔、或いは太古の人の世間体を気にする凄さって、想像を超える強度だから。
たぶん・・・それは自己愛よりも強い。
勿論、自己愛もあるが、それがマスキングされてしまうほどに世間体の圧力は強烈だった。
たぶん、戦争がそれを更に強化しただろう。軍国教育、隣組、憲兵・・・恐怖の中で育まれれば、それが日常だから、それが均衡をもたらしていれば平和なんである。
本当の恐怖は、それが当たり前だと刷り込まれてしまっているコト。異端が排除されるのはキリスト教社会におけるグノーシスを持ち出すまでもなく、あらゆる社会や時代で起こり続けていること。ワガハイの考え方も少数派ではあろうが。
同調圧力もホドホドな世の中ってぇのが、不幸中の幸いというモンだろうに。
という前提条件の変化によって、ワガハイは世間体の圧力からはまあまあ解放されていて、その分、個人的な問題である自己愛が顔を出す、ということかもしれない。
隣人愛:自己愛=1:9
家族愛:自己愛=2:8
簡単に比率で示せるものではないが、あえて数値化すればこんなモンではなかろうか?これをどの様に評価するかは・・・隣人愛も家族愛も0ではない、という点には注目してほしい。正直に厳しく数値化すれば、コレ位に自己愛っていうのは強いモンだと思う。
で、自己愛を認めてしまうと、そこから生ずる怖さから他者を想像出来る。そして更に恐ろしくなる、ってなモンだ。
だからねぇ・・・隣人を愛せ、っていう有名な一節があるワケだが、コレはそのまま直球で受け止めようとすると、かえって分からなくなる。
聖書の内容は逆説であり、例えである・・・そう書かれてるんじゃね?
故に・・・徹底的に自分を愛せ!である。その方が、ナニガシカの突破口が見えるんじゃね?
まあ・・・人によるだろうけれど。
だからねぇ・・・医者が人を殺める(ことに加担する)とか、患者をないがしろにするとか、火を放って36人の命を奪ってしまうとか・・・。犯罪の動機っていうのは、真相が分からなくても身勝手な理由でしかない。
他者が分からない・・・
いや、己が分からないのは常としても、自己愛も欠如しているワなぁ。
(だから・・・己ってぇのは自己愛の巣窟だから。)
でも・・・どうだろう?あらゆる欲望を満たせば幸せで、犯罪を起こさないのだろうか?
まあ・・・人によるだろうけれど。
欲望を満たしても、再び飢え続ける・・・
そして渇く・・・