昨日の続き。
ワガハイは昭和30年代生まれだが、その頃の開業医の方々って戦前・戦中の医学教育環境で医者になった方々だ。元軍医だった人もおられた。アレルギー疾患に関する診断や処置が分からない医者も多かった。そうした医師にとってワガハイのような子供は、謎だらけの患者だっただろう。
「私の能力では原因が分かりません」
と、言える医者もいなかった。これは一種のプライドなんだろう。それぞれの医者が根拠のない病名を付けた。一番多かったのが「自律神経失調症」・・・ありがちだよねぇ。
「小児喘息」という診断も出来ない内科・小児科医がいた。コレは今では考えられない状況だろうが、当時はそういう状況だったのだ。
その頃、親のかかりつけ医はバスに乗って10分程行ったトコロにあって、そのW医院は「内科」だった。近隣の小児科があてにならなかったので、その医院に親がワガハイを連れて行ってみた。すると・・・
「アレルギー性の問題なので、当院では根本的な対応は出来ない。対症療法しか出来ない。」
そういうような話だったという。ただ、複数の医者に言われた「30歳まで生きられない」という言葉についてはキッパリと否定された。「それは医学的根拠が無い」ということだった。
ワガハイ、意味は理解しきれなかったが、子供だって言わんとするコトは察しがつくものである。そしてその医師は、他の医師とは違って喘息の為の処方をしてくれたようだ。ネフライザーというのも、この医院ではじめて使われた。これは心地よいものではなかったけれど。
それまでの医者は、普通に風邪薬が処方されただけだったから。
だが、この医師がアレルギー疾患の専門医を紹介してくれるコトはなかった。ここで対症療法を続けながら、当時は本当に限られていたアレルギー専門医を、親は探さなければならなかった。
それはたまたまだが、父が上司にワガハイの病状を話したところ、その上司が親しかった医学部の先生に聞いてくれたという。そしてある病院を教えてくれた。
「国立小児病院 二宮分院」(神奈川県中郡二宮町山西にあった病院で、現在は閉院。)
当時、この二宮分院は小児喘息の治療では素晴らしい病院だったらしい。ワガハイはここに3歳から12歳まで通院し、減感作療法を続けた。
その後、成人しても胸部レントゲン画像を診ると、小児喘息の痕跡が見つかったらしい。
「何処で治療をされたんですか?」
そういう質問を、何度か医者にされたコトがあった。
「国立小児病院 二宮分院です。」
そう答えると、
「えっ、浅野先生ですか?」
日本のアレルギー治療の先駆者として有名な方に、ワガハイは診てもらっていたらしい。
まあ、確かに・・・あの「30歳まで生きられない」と言った医者を頼りにワガハイは育っていたとしたら、30歳はおろか、10歳までも生きられなかったかもしれない。子供の喘息は大人になれば治る・・・というのが常識とされた時代だった。それは概ねそうなんだろうが、治る前に力尽きる子供も・・・いただろう。
ワガハイは、医学の恩恵によって還暦を過ぎて存在し、ヘロヘロながらも生きている。そしてボケ防止の為に、毎日拙文を連ねている。
結局、老いて再び喘息に囚われてしまった・・・と、落ち込んだコトもあったが、それでも旨酒が呑める程度の健康状態を維持出来ているのは有り難い。そしてこの頃思い出すのが、その浅野先生の姿だ。貫禄と威厳と笑顔が共存する、子供ながらに見た瞬間に安心してしまう医者だった。
「この先生なら、元気になれる!」
何故か、3歳のワガハイは直感した。
病院の庭には芝生が広がり、松林の先には相模湾の水平線と、伊豆大島が望めた。斜面に続く小道を降りていくと海辺に出られた。当時は西湘バイパスが無かったから、スッキリとした砂利の混ざる海岸だった。