Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

Mt. タカトリは彼方此方にあるが・・・大磯町の鷹取山ってぇのもあるな(その2)

昨日の続きであります。続きだからサクッとつなげることにしよう。

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毎度おなじみの説明板でございます

説明板というのは、その設置された場所でじっくりと読むというのがどうも苦手である。それは史跡などもそうなんだが、美術館の展示などの解説文というのが、ど~も会場で読むのが辛いですな。老眼で文字が小さすぎる・・・とかいう理由ではないな。かといって、会場入り口でイヤホンみたいなものを借りて、説明を聞きながら鑑賞するというのも嫌である。ま、結構わがままかもしれんがね。

というわけで、説明や解説というものは、撮影禁止ではない限り撮っておく・・・そして家でじっくりと読みなおすということになる。当然「しまったぁ~そういうことだったのかぁ!ならばもう少し見ておくべきところがあったわぃ!」ということもあるな。ゆえに、同じところに何度も行くということが起こったりする。それは決して面倒なことではないな。もう一度行くと、やっぱり得られる気づきというものはあるもんだ。あまり遠いところだと不可能だけどな。読書と同じで、再読ということも時には必要なんでしょうな。

 

さて、では毎度おなじみの書きうつしたんで、説明文を読んでみてくださいな。

 

鷹取神社御由緒と沿革

鎮座地 大磯町生澤一、四〇一
祭神 木花咲夜姫命 【このはなのさくやひめのみこと】
境内地 二七七坪
保安林 二、四〇〇余坪

鷹取神社は、生澤地区の鎮守氏神様として鷹取山
(二一八、九八米)の山頂に鎮座し、御創建は天長三年
(八二六年)三月と伝えられる。御創建当時の名称は
「直下社【なほもとやしろ】」と言われた。鎌倉時代の文献東鏡【あづまかがみ】によると
「建久二年四月二十七日相模国生澤直下社神主清包
地頭土屋三郎云々」と見える。これによると当神社は
鎌倉時代には専任の神主が在住し、執事していた事が
知られ大変賑いを見せた神社であったと思われる。
小田原北条氏も信仰が篤く、多くの社領の寄進があり
一説には三百貫と言われる。鷹取山の名は、古くは
栗原山等の名があったが現在の名は、徳川家康が平塚の
中原で鷹狩りを行った時その愛鷹がこの山までにげてきて
捕えた事から名付けられた。江戸時代の始め寛文元年
三月の当神社棟札には、鷹取直下社造営と見える
天正十九年徳川家康公より社領二石の御朱印があり
御祭□が富士浅間社と同じであることから江戸中期
から明治の始め頃までは鷹取浅間社と言われるように
なったが、明治六年鷹取神社と現在の名称となり同年
指定村社に列せられた。木花咲夜姫の神様は、大山衹
【おおやまつみかみ】と言う尊い神様の御子神で、木の花(桜の事)の
咲くような美しい姫神様です。湧水を司さどられ
豊作物の豊作の守護神であり又女性の方は熱心に
参拝祈願をすると少しずつより美人となって行く
という御神徳の高い神様です。


【 】内はルビ
□は文字の欠落

 

2013年の撮影であるこの看板・・・現在ではこの看板の状態はどうであろうか?たぶん、なにも修復などしていなければ、文字は読み辛いことになっておるだろうな。或いは立派なものに替えられているかもしれない。しかし、云われが変わるということもあるまい。あるいは新発見や訂正があったとしても、以前の看板の記述というものの意味も、ないがしろにされるというものでもなかろう。

ということで、こうした歴史やいわれに興味のある方々の参考や、ひょっとしたらお手伝いになれば幸いであります。

 

記録は重要ですな。往々にして議事録は改ざんされ、公開を求めればのり弁ではあるが・・・このような解説板の内容が、まさかのり弁になることはあるまい。

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鷹取神社・・・落ち着いた雰囲気のある場ですな

ま、この神社は一人で行くとちょっと寂しいかな?別に初詣に推奨しているわけではないので、何かの折にお参りするのもいいかもしれませんな・・・という話であります。

 

木花咲夜姫・・・桜の花が咲くような美しい姫神様ですか、お会いしたいですね。新しい年になれば、また桜の季節が巡ってくるな。まさか桜の会ってぇヤツはやらんだろうが、みんな来春の桜をしみじみと味わうためにも、この時期を大切に生きましょうな。とりあえず、桜を静かに見ることを目標(楽しみ)に、Etsuro1は公衆衛生のお点前の基本を守り、さらに洗練度を上げることに努力したいと思いますな。もう既に新年の抱負ですな。ああ、やっぱり桜は見たいよなぁ・・・