昨日の「洲濱」についての説明書きもそうなのだが、本日の説明書きもまた、断捨離中に見つけた。

この手書き原稿をコピーした「丸大豆醤油のできるまで」という解説は、かつて存在した神奈川県二宮町の「峯尾醤油醸造所」を訪ねた時に頂いた。鮮やかな香り立つ醤油というよりは、落ち着いた旨味を蓄積した醤油だった。我が家では煮物等に用いるのに適していると思い、そのような用途に使っていた。
こうした地元の味噌、醤油、酢といった小規模な製造者は、年々減少を続けている。実は酒蔵の減少よりも深刻だと思っている。そして淘汰されるべきではない香味・特徴を持つ商品が製造されていても、消費者の理解がなければ消えていく。
多様性とコトバで言うは易し。実態は大手寡占へと進んでいくのは集約することでの効率化が価値観の中心だからだ。ナニが言いたいか?というと・・・米の栽培も集約化・効率化と言われている。そして生産者の高齢化は待ったなし。米の香味も没個性に向かうのだろう。
これは農政族の方々の見識・・・脳味噌がコチコチだったために起きた。対応は後手後手なんてもんじゃない。田圃の成り立ちなんて全く分かってらっしゃらないから、こ~なった。
もっとも瀬戸際に立たないと動かない。いや、危機を迎えても動かない。動いても政治と科学(道理)は対立し、真理というものがあったとしても、それさえマツリゴトに従わせようとする。それはコロナ禍の政策を観ていれば明らか過ぎただろう。
ある点では、そういう相も変わらずのド~ド~巡りをあからさまに観察出来たコトは、コロナ禍の収獲?だったかもしれん。科学者だった方も、科学を捨てたしなぁ・・・ありゃ、棄教者の姿をみたような気がした。
優れた商品、あるいは多様な価値観を存続させるのは、極めて高度な理性的な立場をとらなければならない。つまりそれは禁欲も含めて我慢は必要になる。自己の欲求をコントロール出来なければならない。
そんな理想は実現する筈もないので・・・いろいろと世の中では破綻が生ずる。
大袈裟だと思われるかもしれないが、峯尾醤油が閉業した際に、最後の出荷分の醤油を購入して・・・また一つ、個性を失ったと思った。そりゃ、キッコーマンが造り続けてくれれば、世の中から醤油が消え去るコトはないだろう。だが、土地の醤油が失われれば、その土地の郷土料理の味がまた一つ、失われるのだ。
と・・・云うほど、二宮町の郷土料理があったんだろうか?というと・・・??
なんか、峯尾醤油の晩年は、全然地域から離れた方々の注目度の方が上がってきていたような気もする。だが、その売上だけでは経営を支えられなかったというコトなのだろう。
醸造業の廃業は、和菓子の復活より困難だ。蔵に住み着いた発酵微生物の絶妙なバランスは、造り続けてこそ存在するのだから・・・もう、あの香味の再現は不可能ではないにせよ、厳しい。
現在、峯尾醤油のあった場所には、そこに醬油屋さんがあった痕跡は見当たらない。既に醤油が造られていたコトを知らない方も多くなってきたのかもしれない。たまたま断捨離中に見つけたこのコピーによる手作り感満載の解説を見て、チョットしたセンチメンタルな心情に陥ったワガハイだった。
ところで、このB4の説明書はスキャナーで一発でデータ化出来ない。左右に分けてスキャンして、Photoshopで繋いだ。だが・・・微妙にズレが生じた。
な~んか、僅かにサイズがちがうぞ?
これは、今年になってから導入したEPSONのEW-056Aという複合機(妻用の、たぶん最も安価な機種)を使ってスキャンしてみた。もう、あらゆる設定がオート!これは便利なのか不便なのかワカランが、ワガハイ的には勝手知ったるEPSONのGT-Xシリーズのスキャナーの方が扱いやすい。
ま、ともかく・・・内容は分かるだろうというコトで、少しばかりのズレは許容してほしい。