Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きするろーじんの戯言記録

小田原城ネタの〆・・・鉄コン筋クリート製復興天守

これで一区切りとなる小田原城ネタである。

etsuro1.hatenablog.com

上リンク先からの続き。

小田原駅から最短ルートで登城するとココに来る

人通りの少ないルートで小田原城にやって来た。

 

何度も書くけれど、鉄コン筋クリート製だ。松本城松江城とは違う。でもまあ、小田原の街のシンボルとして、この形体がナニガシカをまとめる力になってきたのだろう。

復興天守だけど・・・歴史公証に立てば怪しさだらけの形状なんだけど・・・ナニもないよりは人々の欲求に応えているんだろうなぁ。

 

この天守、1960年に出来たと・・・その前は完全に城跡だったワケだ。その復興計画に反対した祖父だった。なんか、当時の市長とかなりやり合ったらしい。

でも、結局は観光に負けた。学術的にも妙な復興だと、祖父は問題提起していたらしいケド。

ま、祖父も少数派だった。その意見に耳を傾ける人は少なかったのだろう。

 

学術的に一番顕著に分かりやすい過ちは、テッペンの展望台だ。最上階に行くと周りをグルリと歩けて、四方八方を見渡せるのだが、あんなのは本来無かった。ありゃ、完全に観光目的の展望台だ。

ま、そうは言っても展望台はやっぱり楽しいケドねぇ。

 

学問優先では潤わない・・・と。

そりゃまあ、楽譜に忠実なバッハやモーツァルトの演奏が聴衆にウケるとは限らないワケだからなぁ・・・そういう理解にしておこう。

 

本丸

本丸はかつて動物園だった。ココにウメ子さんという象さんがいた。この象さんのファンも多く、都内に住んでいたワガハイの知人など、時々ウメ子さんに会うために小田原にやって来て、その際にはキャベツなどをしこたま買い込んで飼育員に差し入れしていたらしい。

小田原市 | ゾウのウメ子について

ま、本丸に動物園があったワケだから小田原城址公園という名前の如く、公園整備の一環としての天守閣だったのだろう。だから何となく城っぽいものがシンボルとしてあればヨカッタんだろう。戦後復興の頃の意識なんて、そんなモンだったのだろう。

 

本丸の隅から街を眺めた

そもそも、小田原城は名城だったのか?という疑問は、子供の頃からある。もう、圧倒的に松本城の方が凄いじゃん!と思ったから。そして実際、アチラさんは国宝だしねぇ。

一夜城攻めだって、な~んか盛られた話しのような気がしてならん。ま、戦国の時代はもう少し上の位置に城は築かれていたワケで、そうした遺構の方が価値はあるかもしれない。そしてそれらは痕跡しか残っていないから(昨今はそれでも整いすぎているケド)、余計な偶像を排して妄想に耽るコトが出来る。

 

ま、さっきからクソメソなんだが、いっそ動物園も温存し、市民の憩いの場としておけば・・・それはソレでレトロ感覚でウケたかもしれん。

それに昔はもっと屋台的なものが並んで、観光客は焼きそばやらホットドックなど選びたい放題だったような気がする。その方が楽しくてイイじゃないか?

城に象(ライオンもクジャクもいた)、城にソースの焼けるニオイ・・・なんか、緩くてイイんじゃね?

 

常盤木門から下る

これまた再建の「常盤木門」から下る。そしてこの門の画像はウェブ上に氾濫しているから、ワガハイが改めて提示する必要もないだろう。わが関心は、無限大の位置に垣間見える相模湾だ。

 

まあ・・・街の中心部にコレだけの空間が開けているだけでも、この公園の意味・意義はある。街の設計・計画において空間は宝だ。ナニもない空間こそ貴重なのだ。それは災害時の対応への余裕にも繋がる。

そういう点でも、東京の中心部は恐ろしい。人口に対して空間が無さすぎる。もう、容易に地獄図絵が想像出来てしまうではないか。にもかかわらず、都内マンション価格高騰・・・ワガハイ的には不思議だ。なぜ、そんなリスクを選ぶのだろう?

 

菖蒲だろう

なんか・・・その昔はココって雑然としていた気がする。で、久しぶりにやって来たらこんな風になっていた。

昭和の頃、小田原で菖蒲園といったら「丸山菖蒲園」と言っただろうか?「御感の藤」の先にあった。花の季節は個人の庭を開放して花が楽しめた。

その菖蒲は見事だった。もの凄い評判だったので、高校生だったワガハイでさえ、ウワサを聞いて見に行った。まだ花なんて大して興味のない年ごろだったんだけどねぇ。

かつてココは池だったケド・・・

というワケで、ここからナリユキで歩いて行けば「御感の藤」のトコロに戻る。そして近くのコインパーキングにあるクルマに戻って帰宅したのだった。1時間350円也。