まだまだ続く小田原城ネタ。
昨日のブログ内容 ↓ に若干の補足(追記)を加えた。
さて・・・

昨日の撮影位置から数十歩歩いたトコロに、上画像の通行止めがある。この「こども遊園地」っていうのも古くからあって、たぶん昭和30年代には存在していたのではないだろうか?
いや・・・祖父が話していた記憶からすると、戦後間もない頃のような気もする。というワケで小田原市のサイトを探ってみよう。
あった ↓
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/odawaraArch/2/pdf/0006_19501018.pdf
コレは小田原市報のバックナンバー・・・昭和25年10月18日付けのもの。「小田原市報 こども博特集號」というコトで、そういう催しがあったようだ。
特集號・・・という扱いだから、号外的な市報だったのだろうか?たぶん、この地域では画期的な出来事だったのだろう。
こども博というのが、この「こども遊園地」のはじまりみたいだ。
昭和25年・・・1950年。

かつては動物園もあった小田原城址公園だが、諸般の事情で無くなった・・・と。天守閣の裏側の影で、ヒッソリと狭い檻の中で蹲っていたクマさんの姿など思い出す。寂しかろうと思って訪ねると、威嚇されるだけだったけど。
人間という動物を生涯、敵視していたクマさんだっただろう。ありゃ、動物虐待と言われても仕方ない感じがした。あまり良い飼育環境とも思えなかった。それはまあ、市の予算と見識がそのような結果となった・・・というワケなんだろう。現在の世間の常識とも違っていた昭和の意識、でもあっただろう。
だから、昭和に生まれ、昭和に育った人間という動物は注意しなければならない。昭和の常識を迂闊に行うと、昨今はハラスメントになるから。
いや、もう・・・ワガハイの子供時代は毎日がハラスメントの連続だった。特に学校はハラスメントの巣窟だった。特に特に体育教師は酷かったねぇ。そんな時に体育会系で頑張っていた連中ってぇのが、まあまあバブル期の実働部隊だった世代なワケだけど。
そのような世間の常識において、戦後復興を成し遂げた点もあるけれど・・・どこかで無茶しないと成り立たないというコトか?それでも道理があれば理解も出来るが、闇雲な無茶は非効率的でしかないからなぁ。
効率的ではない頑張りで、日本はGDPを驚異的に押し上げてきたのだ。そして人道を考え始めたら人口減少になり、衰退がはじまったようにも見える。それはまあ、何らかの理想に向けての道半ばゆえの、ギクシャクとした状況にある現在、というコトなんだろう?
とにかく「豆汽車」は走らない。その理由は公式サイトで確認しよう。↓
台風10号で法面が崩れていたんだ。復旧工事完了まで2年程かかる見込みなのかぁ。
コレもまた予算の都合、そして昨今の工事関係の人手不足もあって時間が掛かるのか?でもまあ、一応復旧に向けて牛歩でも進んでいるのだろう。来年とか、再来年にはまた復活するだろう。
子供たち、それまで待とう!でも、微妙な年ごろだと「豆汽車」に乗るタイミングを逸してしまうかもしれないけれど。

「御感の藤」を眺めていて思い出したのが、この「豆汽車」の踏切にあった藤棚だ。それはどんな開花状況なのか気になった。行って見ると、ココはまだ咲いてなかった。たぶん、日当たりの関係だろう。あまり燦燦と日が当たる感じはしないから。
ここの藤は「御感の藤」のクローン(挿し木)なのだろうか?とも思ったけれど、そのアタリはチト不明である。
全く別系統のフジかもしれん。これは開花していればある程度見当はつくかもしれない。ワガハイの記憶は鮮明ではないからナンとも言えない。そのうち、タイミングがあったらこのフジをしっかりと観察してみよう。
ただ、小田原在住でもないので、そうそう頻繁にはやって来れないケドねぇ。

線路は錆びていた。そりゃまあ、そうなるだろうが・・・でも少々寂しいワなぁ。
さて、明日はグルリと裏側を回ったようなルートから本丸となる・・・予定。