Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きするろーじんの戯言記録

小田原城「御感の藤」からマイナーな登城ルート

石垣は崩れますな

若い頃、小田原界隈に居住していたコトもあって、その頃は小田原城も庭のようなモンだった・・・というのは言い過ぎだが、まあまあ自転車でひとっ走りすれば小田原城に行けたワケだから、ガキの頃からの遊び場ではあった。

かつて小田原城には動物園?があって、ライオンも居たし、猿山もあった。しかも象さんまでいたのだ!このコトについては、村上春樹さんもナニガシカの小説で書いていたと思う。

城にインド象というのは、ナカナカの取り合わせであり、ソレはそれで面白い見え方だったけれど・・・文化財にアレコレ妙なモノがあってはならぬ!という文化庁からのお達しだったか、ある時から猛然とあらゆるものが締め出され始めた。

そもそも、ワガハイの幼少期は・・・小田原市役所は城内にあったのだ。市役所職員は毎朝登城していた?ワケだ。でもそれって、本来的というか伝統的というか・・・歴史的というか、城ってぇのは政治の中心でもあったのだから、むしろ当然の姿のようにも思えるんだけどねぇ?

小学校も濠の内にあった。市立城内小学校といった筈。全く芸の無い、そのまんまの名前だったなぁ。なんでも、小田原市栄町という地名界隈に居住し(つまり城内小学校学区)、そこから市立城山中学に進み、更に県立小田原高校に進学する・・・というのが、小田原市民の中でも最も高級な道筋と言われていた嫌~~~なトコロでもある。

ま、そういうのは地方にアリガチな価値観だけどねぇ。

 

今は・・・知らんケド。

 

城下町だけに、妙なヒエラルキーはあった。よそ者はよそ者として扱わるる雰囲気があった。街の中心は閉鎖的だったな。昭和40年代だもの!

 

今は・・・知らんケド。

 

ま、今となってはそ~ゆ~場はシャッター街になって取り壊され、マンションが建っている。かつて排他的だった人たちも世代交代がすすみ、だいたいワガハイ世代は小田原を離れ、実家に住む必要もなくなった。そして相続で売られる・・・という流れだろう。

案外、先祖代々受け継がれてきた土地であったり商売だったりするのかもしれないけれど・・・城下町に根差した産業の多くは、今更必要とされる産業でもなく、その技術を応用して現代に生かせるような展開力もなく・・・衰退して終わった、というストーリーだろう。

 

とにかく小田原の外から入ってきた大手資本によって、小田原に縁も所縁もないと思われる人たちが新しい観光産業を盛り立てようとしている感じ。いかにも伝統的な何かを受け継いでいるような表向きだけ装いながら。

ま、日本のどこでも見られる傾向だけど。都内の再開発と何ら変わるトコロはないな。

この説明書きで昨日の大正天皇御用邸がど~なったのかが分かる

滑り落ちた本丸の石垣

 ここは二の丸とともに本丸の周りに配置された曲輪のひとつ、「南曲輪(鷹部屋曲輪)」です。南曲輪南側の堀(蓮の花が咲く堀)に面する
両側の角には二重の櫓がそびえ、小田原城南側の防備を固めていました【図1】。
 現在は埋まっていますが、この看板付近には本丸斜面の裾をめぐる堀幅9間(約16.3m)、深さ2間半(訳4.5m)の「本丸」がありました。
南曲輪と本丸とはおよそ14mの高低差があり、堀から立ち上がった法面(斜面)の上部には石垣が築かれていました【図1~3】。

 この辺りの石垣は、官営10年(1633)に築かれた本丸の石垣が、元禄16年(1703)の元禄地震などによる被災と修復を経て、関東大
震災で滑り落ちたものです。
 大正12年(1923)、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の激震が発生しました。小田原での被害は甚大で、明治34年(1901)から城内に所在した御用邸の建物も崩壊し、小田原城の多くの石垣も崩壊しました。この辺りの石垣も崩壊しましたが、偶然にも
積み上げられていたままの姿で滑り落ちたため、江戸時代の小田原城の石垣の姿を良く残しています。
 石垣のコーナー部分の積み方や排水口もそのままの姿で確認でき、小田原城本来の石垣の積み方や関東大震災の被害の大きさを伝える貴重な遺跡です。

斜面に石が配置されて日本美を醸し出している・・・という意味合いではない

一応、この状態で崩壊した石垣は安定しているのだろう。これ以上は落下しない・・・んだろう。だがもし、この周辺にいて地震があったら速やかに離れるのが無難かもしれない。人の力で受け止められるような落下物ではないからなぁ。

ただ、揺れる中で走って逃げられるかというと・・・?

かつてはココから上れたんだけどねぇ

落石の恐れがあるから立入禁止・・・なんだそ~だ。上れそうな気もするけれど、一応禁止と書かれているから入らなかった。コレを無視して立ち入って怪我でもしたら・・・プリウスミサイルで批判される高齢者ドライバーと同じく、決まりを守れない老害としてワガハイも位置付けられてしまうかもしれない・・・という自制心が働いた。

案外ワガハイ、その時がきたら素直に免許返納するかもしれない老人である。但し、ボケなければ。だからやはり、このブログを続けてボケ防止に努めるというのは誠に正しい行いだろうと思うのであった。

ま落石の可能性が指摘されている看板がある以上、やっぱりナンかあったら落ちてくると思うんだよなぁ。管理者(小田原市?)は、ナニか危惧しているんだよな。

見上げれば小田原城天守

これ位にチラっと見えている天守閣ってぇのもイイんじゃね?ど~せ鉄コン筋クリート製だから近づくと質感でバレるしねぇ。

かといって、コレが木造だったら・・・やっぱ耐火問題で面倒なんだろう。木造耐火ってぇのもあるけど。

天守閣の展望台に上がっている観光客の姿も見える。そりゃ上がれば景色は見たくなるのが人情だからねぇ。

崩れた石垣の一部

石垣がそこら辺の河原から拾ってきたモノではないコトがわかるノミ跡(ノミというべきか、くさびと言うべきか?)。こうした石工さん達の手わざの痕跡っていうのは若干の風化によって甘くはなってきているものの、リアルだねぇ。

こ~ゆ~ティテールにグサリ!と来るのだ。

はい!見とれてますぅ~~

こういう痕跡を見つけると、血沸き肉躍る感覚が立ち上がってくる。アドレナリンが出ますなぁ。コンプレッサーの駆動音もなく、ひたすら石を叩き続ける音が響く現場だったんだろう。ある石彫家の仕事現場しか見たことがないワガハイとしては、その記憶から類推するしかないのだけれど。

 

撮影場所はココ

https://maps.app.goo.gl/gWf1GpLgKHCmznEQA

 

明日はさらに登城を続ける予定。