Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

雨上がりのオキザリス・・・行方不明の本が見つかった

雨上がりのオキザリス

お久し振りに今朝まで、しっかりとした降雨だった。そしてオキザリスは上画像のように閉じていた。

かなりシッカリと閉じていた。

まるで綺麗に畳んだ雨傘のようだ。

雨なのに畳まれた雨傘、っていうのもヘンだけど。

さて、これで晴れたらど~なるのだろうか?

再びシッカリとした花を咲かせるのだろう・・・な。

 

etsuro1.hatenablog.com

etsuro1.hatenablog.com

今年3回目のオキザリスだ。他にもビオラとか咲いているけれど、このオキザリスには動きがあるので、つい気になる。

午前中は全く開いてなかった花が、午後の日差しの中で全開になっていたりするのを見るのは、やはり嬉しい。だから庭に出る前にふと思ってしまうのだ・・・咲いているだろうか?

つまり動向が気になってくるのだ。

というワケで、常に一定というのは注目されなくなる一因かもしれない。マイドお馴染みでは期待感が失われてしまう。当たり前だと見向きされなくなる。そしていつの間にか失われ、いい加減経ってから無くなっていたコトに気付く。

 

ま、単に話題性・・・というコトなのかもしれんが。

 

昨年暮からふと思い出した本があって、それを本棚であるとか、無造作に積み上げられた書籍類(遂に本棚不足となって溢れだしたのだが)を探してみたりしたのだが、発見に至らなかった。

誰かに貸したままになっているのだろうか?

そう思ったりもした。その本を貸すとすれば2人位しか思い当たらないんだが、貸せばその方からの何らかの感想の記憶がある筈なのに・・・無い。というコトは貸してはいないのだ。

という状態で2025年になってしまった。

そして昨日、もう一度違った角度からその本の記憶を探ってみることにした。

先ず、購入した店は東京銀座の教文館に間違いない。3階のキリスト教書籍を扱っている売り場に積み上げられていたヤツを買ったのだ。

www.kyobunkwan.co.jp

そして面白くて凄い勢いで読んでしまった。それは近年稀に見る集中度をもって一気読みに近かった。

たしか・・・版元は「みすず書房」だった筈。

そして読み終えた後、暫くはリビングの書棚の上に積んである幾冊かの書籍と混ざった状態だった。その後、埃がかぶるのが嫌だったので、仕事部屋の扉付き書棚に入れたか・・・はたまた段ボール箱に入れて収納してしまったか?

というワケで、既に何度も捜索中の仕事部屋の書棚を見直してみた。

ま・・・無いね。

さんざん探したんだから。

それで諦めたのが正月三が日の話し。

 

昨日、ふと教文館の方が丁寧にブックカバーを掛けて下さったコトを思い出した。というコトは、ブックカバーを外さないで書棚に入れた?かもしれない。

すると直ぐに見つかった。要するに教文館のカバーなのだから、それを探せば良いのだ。

というワケで、昨年から思い出しては探していた本は簡単に見つかった。その本は・・・「ヨブへの答え C. G. ユング 林道義 訳 みすず書房である。

いつの間にか失われ、いい加減経ってからその本を思い出し、無くなってはいなかったコトに気付いたワケだ。

www.msz.co.jp

さあ、タイミングを見て再読しよう。どんな発見があるだろう?初手とは違った世界が開けるか?それともシラケるか??

だがおそらく、再読に耐えうる内容だと思う。意味深長な内容だけに、ズブズブと深みにはまるかもしれない。それはそれでいいじゃないか!思う存分、堪能しよう。

 

ヨブは神の内的な二律背反を認識し、それによって彼の認識の光はおのずと神のヌミノースな性質にまで達する。このような発展の可能性は、推測するなら、人間が神の似姿であるということに基いている。もちろんこれを似姿が似ているという意味にとってはならない。この誤りをヤーヴェ自身は偶像禁止によって予防した。ヨブは聞き届けてもらえるという希望がなくても、神に対して事情を説明するという考えを変えようとしないので、神に立ち向かい、そのために困難に出会ったが、この困難を通じて神の本質が明らかにならざるえをえない。(p.28 l.5~)

ま、ヨブ記を読んでいるコトが前提(いや、聖書通読しているコトが前提)となる本だ。誰にでもお薦め出来る本ではない・・・けれど。この本の内容がワガハイの感じていたコトと同調した箇所が、上の引用先だった。ここからのめり込み始めたワケだった。

というワケで、ここにはシッカリと最初の付箋が貼られていた。それにしても貼られた付箋の多い本であった。