昨日は「左手は要である!」という題目で書いた。本日はその続き、というかピアノ教師のFさんネタとその周辺・・・といった感じになると思う。
Fさんは大正生まれだった。だが、その見識は古さを感じるコトなく、むしろ現在の音楽教育の中で忘れられているのかもしれないコトを伝えて、何人もの音大生の耳を開かせてきたらしい。
「聴きなさい」というのは、つまりは聖書的にいう「見よ!聞け!」的な意味合いも含まれていたと思う。左手の音を聴くコトは、何らかの「見よ!聞け!」に通じていたのではないだろうか。
それは教会(礼拝)音楽に限らず、西欧音楽の全般に渡ってその楽譜を読解する為の重要なナニかが秘められていたのではないだろうか?残念ながらワガハイはピアノが弾けないので、直接的には彼女の言うトコロを体験出来たワケではない。
だが、彼女の語りを聞いていくうちに、ワガハイ的にはつまるところ・・・といったポイントが見えたように思ったコトがあった。
「Fさん、ソレってつまり朗読と同じなんじゃない?」
それは楽譜を朗読するように楽器で奏でるコト。或いは歌うコト。そしてそのココロは礼拝での聖書朗読に通ずるのではないか?というワケだ。すると彼女は目ん玉をぐるりと回して机を叩き「然り!」と言った。
朗読は、その文章の意味をどの様に理解しているかが反映してしまう。中途半端な理解だと聞き手に伝わるコトも中途半端であり、もとより曖昧な発声では聞く耳に届かない。意味的にも音的にも明瞭であるコトが必要なのだ。
遠達性・・・これは単に音がデカければ遠くまで明瞭に内容が伝わるとは限らない。やはり整理された音として表現されないと伝わらない。だがここでは、一つ一つの音の粒立ちをハッキリとさせれば良いのではないか?という話では収まらないナニかのコトが問題。
小さな音でも、しっかりと届く演奏がある。それはかつて東京文化会館大ホールで経験したアンドレス・セゴビア(ギター)のリサイタル。それは大巨匠の音楽を聴くために集まった聴衆の意識の高さも手伝ってはいるだろう。
ステージ上では老人がギターを抱えて、決して豊かとはいえない音量でバッハを演奏し始めた。だが、その音はホールの片隅まで浸透するような伝わり方をしていた。一つ一つの音の分離もハッキリしていて、その一音一音の反響がまた、良いハーモニーを生み出しているようだった。
そういう話をしてから、FさんにセゴビアのCDを渡した。
後日伺うと・・・「このセゴビアさんの演奏はまさしく、私が言い続けているコトです!」と言った。
「でも、いったいセゴビアさんの演奏を聴いて、どれだけの人がその問題に気付いているのだろうか?」
そういう疑問もまた、Fさんの口から出た。
「日本の音楽教育環境が悪いのか?」
とワガハイが言うと、
「恵まれてませんね。っていうか、違うんだよ!」
だそうだ。始まりから違うのだそうだ。でもまあ・・・その言い分はわかるような気がする。そもそもクラシック音楽自体がメジャーな扱いではないし、多くの若者がやりたいのはいわゆるバンド活動だろう。クラシック音楽の世界もまた、労多くして報われない分野なのではないか?
それは・・・絵描きや彫刻家の大多数の方が、もっと悲惨なような気もするけれど。
老人ホームにいたFさんが退屈して外出したいと言った時があった。それでワガハイが行ったのを理由に施設の夕飯をキャンセルし、街に出て外食となった。薄いお湯割り焼酎など注文してしっかりと食欲を満たしたFさん。ほろ酔い気分で上機嫌!楽器売場に並べられたキーボードを前に、チョロッとモーツァルトなど弾き出した。
途端、奥に居た二人の店員の首がコチラに向いた。一瞬にしてその店員の耳を釘付けにしてしまったFさんは、そんなコトも気付かずに鼻歌混じりで上機嫌にキーボード演奏。そして・・・
「まあ、こんなモンでしょ!ハハハハ・・・」
そう言って店の前を離れた。店員がワガハイめがけて駆けつけてきた。
「あの・・・コチラはどのような方なんでしょう?」
それを聞いたFさん、
「年寄です!ババアですよ!酔っ払いババア!!ハハ・・・」
尚も真相が知りたい店員さん。ワガハイにお伺いをたててきた。ワガハイも仕方ないので「只者ではないです」とだけ答えた。
後日、そのコトをFさんに話すと
「そうだったかしら?わたし、演奏したのね・・・あの日は楽しかったわ。」
そして更に後日、彼女の娘さんにお会いした時に内容を伝えると・・・
「よろしい!」
その一言だけ。
駅前ビルの一テナントだったその楽器店は、周辺ノイズ多目のトコロだった。Fさんの音は、その騒音をかき分けて店員の耳に明瞭に届いた。それはヤマハのクラビノーバのようなモノだったし、設定音量もさして大きくはなかった。つまりその老人の奏でた音は遠達するのだった。