Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

寒さの中で「ふたわんのゆき」を思い出す

このところ見る・聞く・読むコトについてアレコレと書いている。本日も昨日の続きだが、その前に一休み。

散歩中の一枚 1

道脇は草刈がされ落葉も片付けられていたのだが、その作業の後に落ちたのだと思われる。だから目立った。

散歩中の一枚 2

複数枚落ちていたので、また撮る。

散歩中の一枚 3

当然ながら表情が違うので、飽きずに撮る。道端にしゃがみ込んで、撮る。

散歩中の一枚 4

もう暫くすると、この落葉も粉々に砕けて土に紛れてしまうだろう。そして風が吹けば何処かに吹き溜まってしまうかもしれない。

散歩中の一枚 5

というワケで、正体はコレ(上画像)みたいだ。まだ暫くは落葉が供給されそうだ。

光線の具合から、薄曇りなのがお分かりと思う。まあまあ寒い。散歩している人もまばらだった。そして隣の松では・・・

散歩中の一枚 6

隣同士なのに状態がかなり違っていた。落葉の供給源はコチラ、なのかもしれない。

 

家を出る時は雲間から日がさしていたのだが、歩きだしたら曇がかかってしまった。そういう寒さからだろうか、宮沢賢治の「永訣の朝」を思い出した。

いきなり、昨日紹介した「天沢退二郎 宮沢賢治の彼方へ」から、何一つ説明がないままに一節を引用する。

このおどろきはいま啓示されたおのれの誌へのおどろきである。そのおどろきの頂きで詩人はいのるほかに何ができよう?何をいのるのかー 天沢退二郎 宮沢賢治の彼方へ 思潮社版 p.168 l.10)

というワケで、「永訣の朝」は高校教科書にも載っていた程だから、まあまあ知らぬ人も少ない?かなぁ。この後に同書で引用されているのが・・・

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまここからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになって

おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

注:赤字はワガハイによる

詩集を速読するという愚かなコトをした中学の頃、この「永訣の朝」をはじめて読んだ時は「草野心平編」の宮沢賢治詩集(新潮文庫)だった。

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまここからいのる

どうかこれが兜卒の天の食に変って

やがてはおまへとみんなとに

聖い資糧をもたらすことを

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

宮沢賢治詩集 草野心平編(新潮文庫)p.51-52

注:赤字はワガハイによる

「ふたわんのゆき」に、なにか循環のようなイメージを抱いたのが初読(速読)の中学生だった。でもそこまでで、先には踏み込まなかった。ただ、始めて接したのが「天上のアイスクリーム」だったならば、その単語の分かりやすさゆえに早合点して終わっただろう。だが「兜卒」とはナンじゃらホイ?と思ったワケで、辞書と百科事典で調べた。

調べても分からなかった。それに新潮文庫の掲載ページに書かれた注だって、ワケ分らんと思った。弥勒菩薩がナンジャらカンじゃら言われても、教科書掲載の広隆寺弥勒菩薩像しか出てこない。しかも図版のイメージだけ。

中学生のワガハイは、ココで止まった。ただ、雪がナニか特別なものに変容する、違った意味に変化するというコトで止まった。

この先の世界に一歩踏み出すのは、高校二年になってからだ。

 

結局、宮沢賢治を深読みしようとすると、法華経がナンジャラホイ?というコトになってくる。特に草野心平版の「兜卒の天の食」は、ワガハイ的にはアイスクリームよりも深掘り出来てよろしいのだが・・・ガキだったワガハイのようにフリーズしてしまうのが良いのかどうか?

コレは「詩」なのか、それとも法華信仰の為のナニか、なのか?

ここの問題は諸説あるらしいが、まあ「詩」だからアイスクリームとした方がいいかもしれない。そう思うようになってきたのは、割と最近なのだ。

でもそれは「兜卒の天の食」で深掘りした経験からかもしれないが、アイスクリームでも何ら意味するトコロに問題はないと、思うようになったのかもしれない。

まあ・・・法華の世界への通用口には「アイスクリーム」ではならない、だろうな。

 

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