このところ見る・聞く・読むコトについてアレコレと書いている。本日も昨日の続きだが、その前に一休み。
道脇は草刈がされ落葉も片付けられていたのだが、その作業の後に落ちたのだと思われる。だから目立った。
複数枚落ちていたので、また撮る。
当然ながら表情が違うので、飽きずに撮る。道端にしゃがみ込んで、撮る。
もう暫くすると、この落葉も粉々に砕けて土に紛れてしまうだろう。そして風が吹けば何処かに吹き溜まってしまうかもしれない。
というワケで、正体はコレ(上画像)みたいだ。まだ暫くは落葉が供給されそうだ。
光線の具合から、薄曇りなのがお分かりと思う。まあまあ寒い。散歩している人もまばらだった。そして隣の松では・・・
隣同士なのに状態がかなり違っていた。落葉の供給源はコチラ、なのかもしれない。
家を出る時は雲間から日がさしていたのだが、歩きだしたら曇がかかってしまった。そういう寒さからだろうか、宮沢賢治の「永訣の朝」を思い出した。
いきなり、昨日紹介した「天沢退二郎 宮沢賢治の彼方へ」から、何一つ説明がないままに一節を引用する。
このおどろきはいま啓示されたおのれの誌へのおどろきである。そのおどろきの頂きで詩人はいのるほかに何ができよう?何をいのるのかー (天沢退二郎 宮沢賢治の彼方へ 思潮社版 p.168 l.10)
というワケで、「永訣の朝」は高校教科書にも載っていた程だから、まあまあ知らぬ人も少ない?かなぁ。この後に同書で引用されているのが・・・
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまここからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
注:赤字はワガハイによる
詩集を速読するという愚かなコトをした中学の頃、この「永訣の朝」をはじめて読んだ時は「草野心平編」の宮沢賢治詩集(新潮文庫)だった。
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまここからいのる
どうかこれが兜卒の天の食に変って
やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
注:赤字はワガハイによる
「ふたわんのゆき」に、なにか循環のようなイメージを抱いたのが初読(速読)の中学生だった。でもそこまでで、先には踏み込まなかった。ただ、始めて接したのが「天上のアイスクリーム」だったならば、その単語の分かりやすさゆえに早合点して終わっただろう。だが「兜卒」とはナンじゃらホイ?と思ったワケで、辞書と百科事典で調べた。
調べても分からなかった。それに新潮文庫の掲載ページに書かれた注だって、ワケ分らんと思った。弥勒菩薩がナンジャらカンじゃら言われても、教科書掲載の広隆寺の弥勒菩薩像しか出てこない。しかも図版のイメージだけ。
中学生のワガハイは、ココで止まった。ただ、雪がナニか特別なものに変容する、違った意味に変化するというコトで止まった。
この先の世界に一歩踏み出すのは、高校二年になってからだ。
結局、宮沢賢治を深読みしようとすると、法華経がナンジャラホイ?というコトになってくる。特に草野心平版の「兜卒の天の食」は、ワガハイ的にはアイスクリームよりも深掘り出来てよろしいのだが・・・ガキだったワガハイのようにフリーズしてしまうのが良いのかどうか?
コレは「詩」なのか、それとも法華信仰の為のナニか、なのか?
ここの問題は諸説あるらしいが、まあ「詩」だからアイスクリームとした方がいいかもしれない。そう思うようになってきたのは、割と最近なのだ。
でもそれは「兜卒の天の食」で深掘りした経験からかもしれないが、アイスクリームでも何ら意味するトコロに問題はないと、思うようになったのかもしれない。
まあ・・・法華の世界への通用口には「アイスクリーム」ではならない、だろうな。