普段、フォトショップで画像を加工するにも最小限に止めているワガハイだが、コレはイロイロな意味を含めて弄った。
上画像に見える「希望の未来」って、いったい誰の希望と未来なのだろうか?それは・・・
私の希望
あなたの希望
家族の希望
地域や国といった・・・
社会(全体)の希望
社会(部分的)の希望
個人と全体、そしてその逆もまた真なり、という具合にいくのだろうか?老人になりながら、思春期のような言いがかりをつけたくなるポスターが貼られていた。
主語がない、行先不明の状態。それは妄想・盲信を生じさせかねない。
ワガハイ、多少なりとも美術やらデザインの領域に関わって来た関係上、あるモノが提示される「場」によって、同じモノでも意味合いが違ってしまうコトを過剰に感じてしまうのかもしれない(これ、言葉だってシチュエーションによるからねぇ・・・モノだって同じだ)。
それは特にインスタレーションといった表現方法が多くなって以降、例えば釘一本でさえ、提示の仕方で意味が変わってしまうコトは散々示され続けてきたコトだ。
まあ・・・干からびた雑巾を彫刻台の上にセットするコトで、美術制度からモノの認識まで妄想をさせようと試みた作家もおられたからなぁ。
そうした経験を経て、アートシーンも随分と年月が経ったワケだし、鑑賞者の方々にも周知されたコトなのではないか?とも思う。そうでなければアチコチで開催されている芸術祭の意味が薄らいでしまうのではないだろうか?(それはまた、企画者・制作者に対しても留意し、再確認してもらいたい事項でもあるけれど。)
上画像はある政党のポスターだ。政党名を隠さなくてもお分かりとは思うが、その政党を直接批判するワケではないので、出来るだけ画像を加工しつつ、画的にも作ってみた・・・って、その加工の仕方にも皮肉が込められている??かも、しれない。表現とはそ~ゆ~ものだから。
ま、端的に言って・・・
「希望の未来」の(ポスターが貼られた)螺旋階段は錆び始めている。
上っていった先には扉があるけれど、その手前部分が一番錆びているように見える。この階段を、あなたは上りたいと思うだろうか?
ワガハイは上りたくない。
そしてこの階段横に置かれた組立式のロッカーの中にはナニが入っているのだろう?このロッカーの中に「希望の未来」があるのだろうか?
希望の未来を作る工具が入っている??
でもとにかく、螺旋階段の先の扉をこじ開けても、ロッカーを開けても、無断にやれば警察のお世話になってしまう。
不法侵入!
これでは犯罪を促すようなコトになってしまうではないか!(トランプかいな?)
合法的な「希望の未来」の実現の為には、官憲の力によるしかないというコトを言いたいのだろうか?(官憲だって暴走するときは狂う)
或いはやはり、自由を手にするためには不法に扉をこじ開けよ!とでも言いたいのだろうか?つまり革命。でも、コレはもう既に過ぎ去った時代のやり方にも思える。ワガハイより上の世代のコトだ(それは美共闘※ なんていって騒いでいた頃のコト)。
信号待ちの僅かな時間に、一瞬にしていろいろなコトが思い巡らされた。このポスターの貼られた空間は、案外饒舌な「表現の場」になっていたように思った。それはワガハイ的身勝手な見立て、でしかないが、わざわざ芸術祭を見に出かけるよりも身近に、イロイロあるってなモンだ。
一枚のポスターが貼られただけだが、そこに書かれた言葉によって「場」が僅かに変わった。でもたぶん、コレを貼った人はそんなコトを意図してもいないだろうし、そういう使われ方を前提として、この政党もポスターを作ったのでもないだろう。
つまり、ポスターそのモノが示す世界観だけしか意識されていない。というコトは目的が自己完結であり、自己実現であり、他者との関係性(掲示環境)が全く配慮されていない?
提示されたモノゴトを、どの様に受け取るかは人それぞれ。制作者の意図をある程度筋道に導くのはコードではあるけれど・・・ワガハイは異なったコードから読解しているだろう。それにこのポスターの制作者のコードなど、ワガハイにはナンの関わりもない。
難しいコトを抜きにしても、意図せず、作為以外のコトの方が面白かったりするのはよくある出来事だから、街中で妙な見立てを繰り返すっていうのもイイんじゃない?そういうのって、ちょっと赤瀬川原平(1937~2014)さんを思い出すけれど。
※ 美術家共闘会議(美共闘)1969年に多摩美術大学の学生により結成。反体制運動を展開した。