Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

平塚港周辺を散歩 1

相模川右岸より下流側を望む之図

コチラは平塚市、対岸は茅ケ崎市。見える橋は国道134号線の湘南大橋。な~んか最近は「トラスコ湘南大橋」なんて云うらしい。

トラスコ・・・まあ、そういうコトなんだろうが、ワガハイの古いアタマでは湘南大橋って言われれば分かるけれど、トラスコが付いたら「そんなの知らん!」って言いそうだけどね。

んっ?名前に拘ってる! ←ココは岡本太郎風にお願いしま~す!

対岸は「湘南シーサイドカントリークラブ」

この日は天気が良かったので気持ち良かった・・・のではなく、暑かった。だからのんびりと堤を散歩する気にならなかった。綺麗な風景なのだが、ソコソコで帰りたくなってきた。

上流側を望む

遠くに見える橋は東海道本線だ。河口に近いだけに川幅が広い。神奈川県内では一番川幅のある相模川だ。もっとも下流域は「馬入川(ばにゅうがわ)」と呼んだりする。

山梨県が最も奥まった源流域で、流れる水には忍野八海や山中湖の水も混ざっている。だが、流下するうちにそれなりに濁ってしまって、それなりの水質となってしまう。

以前よりも改善されたけれど、相模湖の富栄養価が問題になった時もあった。あの湖の水はアオコで凄かったから。

須賀港(平塚漁港)

ワガハイ的には人間が古いので、平塚漁港といったらこの須賀港のコトを指す。千石船も出入りした歴史的な場所だが、河口の水深が浅くなったりして海側に新港が出来た。そちらは「ひらつかタマ三郎漁港(平塚新港)」と言うらしい。

なんだかよ~ワカランけれど。

でもまあ、ナニにつけても歴史ある方が風景的にはイイ感じなんである。散策するならこちらの須賀港の方をおススメする。

相模川の堤防から続いて歩ける

漁港風景は好きだ。当ブログでも何度か真鶴港は紹介した。そしてまだ書いてないけれど三浦半島にはイイ感じの港が幾つかあって、そりゃ三崎港が有名だけど・・・それ以外に趣のある漁港があるのだ(間口漁港、宮川港とか)。

でも三浦半島はねぇ・・・踏み入れると道が混雑していたりする印象があって、行くには少しだけ覚悟がいる。

水産加工業者の建物?

須賀港を囲む防波堤の上から、上画像のような状態の建物が見える。というか直ぐ脇にある。たぶん、もう使われていない建物だろう。撮影はしなかったが、この反対側・・・即ち道路に面した方には「落下物注意!!」の看板が設置されている。確認したい方は、グーグルストリートビュー(以下リンク先)で見るコトが出来る。

https://maps.app.goo.gl/YcFA4ujmCeqfkzn66

防波堤を相模川側に戻る

漁港風景を見たら川の堤側に戻る、そして右手(下流側)に下る階段があるので、それを降りる。空地のような広場のような空間があって、川面が近くなる。

「平塚八景 湘南潮来」の説明板

平塚八景 湘南潮来

 山梨県の山中湖から発し忍野八海の湧水、そして流域の
諸川を合わせた流程115キロメートルの相模川は、相模湾
の河口に至り川幅は700メートルとなっている。
 この河口は海抜以下で海水が逆流し、満々と水をたたえ
ていて、景観が水郷潮来に似ているので、湘南潮来と名づ
けられた。
 河畔には川釣り、海釣りなどを案内する観光漁業が盛ん
で、また夏には花火大会が開催されている。

 

水郷潮来に似ている・・・?

ワガハイ的には「潮来」っていうのはちょっと力技を感じてしまうけれど・・・その気持ちは分かる、としよう。

平塚八景については以下リンク先参照。

www.city.hiratsuka.kanagawa.jp

湘南潮来・・・

潮来は祖父の故郷に近い。徳川幕府利根川の流路変更によって、祖父の祖先は泥沼化した田圃と格闘することになったという。そうして明治の文明開化の流れの中で、田畑に見切りをつけて教師になったのが祖父だ。

潮来ねぇ・・・そういえばワガハイはしっかりと観光したコトはないなぁ。

川面が近い

川とはいえ、汽水域だ。釣りをしたら魚種が豊富なのだろうか?ポツポツと釣り糸を垂れる姿も見られた。

ただ、湘南潮来の説明板に書かれた「海抜以下」という記述なワケで、津波となったらチトきついトコロだろう。小学生の頃に親父と散歩して、海水が逆流していく様子を見せてくれた相模川下流域だ。そういう条件だから須賀港があるワケだけど。

碑があった・・・既に一部文字が読めない

相州須賀湊の碑

□□は相模川の河口に位置する自然港としてまた漁場としてはやく
□□ひらけていたもののようで平安時代空海伊豆の国から来航し
□□らく庵をむすんでいたという伝説がのこっている 鎌倉時代には
上流の森林地帯から伐り出した巨木を筏としてここにあつめ沿海地に
送るということも行なわれたらしい つづいて後北条氏時代の記録は
穀物魚類木材を各地に輸送したことをのせている 特に江戸時代には
須賀の廻船問屋が千石船をもって江戸表をはじめ各地と物資の交流を
行なったため商業地として繁昌し かたがた須賀のさかな売が奇智と
勤勉とを以て販路を拡張したことは有名な話である 明治二十年七月
平塚ステーション開駅以来一時衰微をみたが近来遠洋漁業としてまた
健康な住宅地としてめざましい発展を続けているばかりでなく河海の
雄大にして変化に富む眺望は湘南最高の観光地としてあまねく世人の
知るところとなったことはよろこばしい

昭和四十一年夏  
平塚市長 加藤一太郎 題字
元市長  柿澤篤太郎 撰
竹 坪  田中正一郎 書

注:□は読解不可

この碑の文字は読み辛かった。既に風化し始めていた。

 

では、次回に続く。