特に意図もなく、たまには30mmマクロレンズでも付けて撮ってみようと思った。そして庭に出るとコレオプシス(ハルシャギク)に黒いナニモノかが見えた。それは虫・・・甲虫だ。まあまあ小さくて5mm程度だった。
勿論、老眼なので見辛い。だがマクロレンズ付きのカメラならば、ルーペよりも強力だ・・・が、花が微風に揺れてシンドイ。そういうコトは屋外でのマクロ撮影ではつきものだけど。で、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる!という手法になる。
この話しは、以下リンク先のハルシャギクでの、今朝の出来事だ。
ところで、網膜穿孔(裂孔)なる問題が生じて「レーザー光凝固治療」をして一か月が過ぎた。というコトで、ココからは以下リンク先のその後の話しだ。
一か月後に来院されたし!という眼科主治医の言葉を守り、先日は公共交通機関を利用して行ってきた。散瞳されるので、クルマとか自転車は禁止なのだ。今回は両目を診察するらしい。
幸いなコトに眼科はとても空いていた。今まではえらく待たされたけれど、こんなに空いているとここの眼科の経営は大丈夫なんだろうか?と、チト心配になる。
なにせ空いているから、受付を終えると直ぐに呼ばれた。マイドだが覗くと気球の絵が見えるヤツで・・・たぶん近視や乱視の度数を計っているんだろう。そして眼圧計測の空気がプシュッ!と噴射される。そんなに毎回調べる必要があるのか?とも思うが、医者として患者に「見え具合はどうですか?」と質問したトコロで、冷静な回答は得られない。
「なんかイイ感じに見えてます!」
「大して変わりないです!」
そんな回答を得ても状態はワカランだろう。ならば数値化しておいた方がイイ。当人が変化なしと言っても、数字に変化が現れるコトだってあるだろう。感覚的な問題は、感受性の差異という個人差がモロに出てしまうだろうからなぁ。
というワケで、この後はマイドの視力検査になるんだが・・・これもまたマイド計測するほどに変化があるんだろうか?とは思うけれど。でも、確かに視力もその日によって変動するもんなんだなぁ・・・というのが分かった。
その後、散瞳剤を点眼されて一旦、待合室に戻る。薬が効くまで20分間待つ。この間がねぇ・・・なんとも暇でやるコトがない。待合室にテレビがあるワケでもなく、これから目の診察を受けるのに本を読む気にもならん。そもそも散瞳剤の効果が実感出来るのは15分程かかるように思う。
あ、ここの眼科は音楽が流れているワケでもない。というワケで、いろいろ思い巡らして時間を過ごすしかない。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 (マタイによる福音書7章3節 新共同訳)
そうなんだよなぁ・・・目の中の丸太、っていうか気になる飛蚊症の大き目のヤツって、この福音書の丸太かいな?とか、
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 (マタイによる福音書11章5節 新共同訳)
他にも幾つかあるけれど、思い出せる限りの目についての箇所を思い出しつつ、昔の人たちの眼病の中には大したコトのないモノも多かったかもしれないが・・・やっぱり緑内障や白内障、網膜剥離といった病気で失明してしまう人も多かったんだろうなぁ。今では医学が万能とは言わないまでも、いろいろ対処出来るようになったから幸いだよなぁ。
その分、信仰に頼る必要がなくなった・・・と。そして神が面倒になった・・・と。
苦難から救われるのは幸いだけど・・・時にナンで苦難に襲われるのか?を考えるのもイイかもしれん。模範解答を求めるコトなく自問自答。
でも・・・案外、己の問題で苦難に遭遇しているコトも多々あり。ただし、今回の網膜穿孔っていうのはど~にもならん。老朽化だから。
ま、異変に気付いたら早急に対処するのが良策。まだ暫くは目の前の世界を観ていたいのだから、これからは半年に一回程度の検診がよろしいというコトらしい。
もう少し老いて、世の中観るのもつまらなくなったなら、眼科に行くコトも無くなるかもしれんが。
でもまあ、こうして庭にやって来る虫などが気になるし、草花も綺麗だから・・・それらを眺める快楽の為にも、飛蚊症が鬱陶しくても視力は確保しておきたいもんだ。
それに視覚もまた、失って気付く重大なコトもあるだろう。頭髪を失って気付いたコトがあるという前例からすれば。(あ!禿げるとモロに頭皮を怪我するんだよねぇ。いかに頭髪が頭部を保護していたのかが実感を持って分かるのが、禿げである。見てくれの問題より重要なコトだったのだ。)