相模湾ですぅ~~~っ。
手前はみかん山ですぅ~~~っ。
神奈川県小田原市にやって来ました。石橋山は一夜城のあるお山でございます。
夕方、ちょっと寄り道して高めのトコロからの風景を見て、気分転換した。スッキリしない天気だったが、あまり雨は降らなかった。一応、海景としては三浦半島の方までうっすらと見えていた。
だが、如何せん・・・撮影時間が午後6時。曇りの6時!低コントラストなので少々コントラストをいじって高めにした。そして撮影感度もISO3000設定にして手持ち撮影である。
こんなこと、フィルムカメラの時にはあり得ない。せいぜい通常はISO400のフィルムがカメラに装填されていて、手振れ補正付きレンズなんて昔は無かったから、息を凝らして一か八かで撮影したりした。
そういう時は、息のコントロールが大切で、一応の秘訣としては・・・ゆっくりと息を吐きながら、シャッターボタンを指の腹でジワッと押すようにする。肩の力は抜いて、左手でやんわりとカメラボデイからレンズにかけて支える。そんな感じでやると、うまくするとブレずに撮影出来る。
三脚使用が基本だねぇ。
当時は、三脚が重かった。また、重い三脚じゃないと安定しなかったし、重さは三脚の性能の一つだった。正確には重心の位置の問題であるとか、カメラ重量とのバランスであるとか、そういうコトになるのは当然の理屈だが。
レコードプレーヤーのターンテーブルと、三脚は重いのが勝ち!なんて言われていたからねぇ。
とにかく、アナログは質量勝負!ってなトコロがあった。物量勝負!とも言ったけれど。
ま、夕方だったし、この風景を見て一息入れるのが目的だったので、一夜城には登城しなかった。あそこは暗くなってから行くところじゃないからねぇ。ここ数年行ったコトはないけれど、記憶では外灯なんて無かったと思う。足元もよくないしね。
なんか、比較的新しい説明板が設置されていた。新しいから当面、薄くなって読みづらくなる恐れはないだろうが、説明板だから一応書き写しておく。
石垣山に参陣した武将たち
千利休(せんの りきゅう)
大永2年(1522)~天正19年(1591)和泉堺の納屋衆千与兵衛の子。堺の町衆の間で
流行していた茶の湯にひかれ、武野紹鴎らに学ぶ。
初め与四郎、のち宗易と名乗った。茶人としての
名声を高めて織田信長の茶頭の一人に加えられ、
次いで豊臣秀吉に仕えて利休の名を授かるなど、
天下の茶匠と言われるほどになった。小田原合戦
でも秀吉に同行し、側近の一人として活躍する一
方、陣中で茶会を催し、諸将の苦労を慰めた。茶
道のひとつである「佗茶」で使用される竹の花生
けは、小田原合戦に随行した利休が茶会の際にそ
の場で作ったことが始まりと言われている。
まあまあ、結構な勾配の坂道なので、徒歩で行くにはちょっとしたハイキングになる。そしてクルマで行くと駐車場があるから・・・大概の人はクルマで行く。こういうトコロって、徒歩で大汗かいて上っていくと・・・なんか、ねぇ?
で・・・一夜城跡に行けば、小田原城が見える場所が設けられていて、この様にして小田原の連中がもたもたしているうちに豊臣方は城を築き、一気に木を切って見せつけたワケだ!ってのが実感できるような気がする。
でも、当時の小田原城天守閣って、現在の位置にあったんだっけ?
もう少し山寄りだったんじゃなかったっけ?
と、思ったりもするが、正確なところはいつになっても確認しない。多分、一夜城から見て、現在よりもう少し左側の山の上だと思う。だが、その位置って目印が分かりづらいから・・・だいたいこんな感じだったんだろう、という不正確な状態で・・・とりあえず、納得してしまおう!
歴史家でもないので、概ねで十分である。
で・・・鉄コン筋クリート製小田原城天守閣に上って一夜城を確認しようとすると、コレはハードルが高い。それをやるには先ず一夜城を一巡りして、その構造をアタマに入れてから小田原城に行く。すると発見しやすいと思う。
まあ、人それぞれだが・・・ワガハイ的には小田原城をウロウロするよりも、一夜城の城跡の方が趣はあるな。こちらも公園化してはいるけれど。